七話

 これは私とこはくさまの夫婦生活が、だいぶ板についてきた頃のお話。

 気をつけなさいよぉ!とケラケラ笑いながら私に話してきたのは、世話好きでちょっとお節介な八百屋の女将さんだった。

「男なんて刺激を求める生き物なんだから。妻はじきに側にいるのが当たり前な存在で、すぐ女としてなんて見てくれなくなるもんよ」
 
 はいおまけ。と里芋を二個追加で私の買い物かごに放り込みながら、女将さんは意気揚々と言った。里芋をもらったのは嬉しいけれど、私の頭の中は女将さんの会話内容でいっぱいだ。

「そういうものなのですか?」
「あら、あんたの所は結婚したばっかりだろ?旦那はまだ随分と若いしあんたも若くてかわいいからまだ大丈夫よ」
「そ、そっか」
「まだ、ね。ははは!」
 
 豪快に笑った女将さんが冗談冗談!と言いながら最後にみかんを二つ私の持ったかごに入れてくれた。ぎこちなくお礼を言って八百屋を後にすると、まるでお寺の鐘を耳元で鳴らされたかのように頭をぐらぐらさせた。
 結婚したら女として見れなくなる?でも私とこはくさまは結婚してから初めて出会ったわけで、今も仲良しで。前に私がはしたなくも浮気を疑ってしまった時も、妾を囲うなんてないってはっきり言ってくださった。

「そうだ。こはくさまは嘘を吐くような方じゃないものね。疑ってしまっては失礼だわ」
 
 私は今きっとお仕事で忙しくしているであろうこはくさまの顔を思い出し、一人うんうんと頷いた。以前も勝手に暴走してこはくさまにご迷惑をかけたのだから、同じことをしないようにしないと。

「でも、女性らしくいる努力は大切よね」
 
 八百屋の女将さんが言いたかったのは、いつまでも努力を忘れてはいけないということかもしれない。と、前向きに考えることにした私は、確かに女性としてのお洒落をあまりしていない事に気が付いた。こはくさまはお仕事でお座敷にも行くし、芸者さんとお会いすることも多いだろう。その時綺麗な女性を見て、一瞬だけでも綺麗だと思うことはあると思う。
 私も大好きなこはくさまに、一瞬だけでも綺麗だと思ってもらえる努力はすべき。と、ぐっと拳を握りしめた。
 まずは家に帰って、嫁入り道具として持ってきた紅でも差そうと決める。きちんとした時にしか使わないそれを日常でも使って、まずは自分がお洒落を意識しようと思ったのだ。

「がんばるぞ〜」
 全部全部、こはくさまに出来るだけ長く愛していただきたいから。私の想いはそれ一心である。

「ただいま」
「おかえりなさい。こはくさま」
 
 お仕事お疲れさまでした。と玄関で彼を出迎えれば、こはくさまは穏やかに笑って家の中に入ってくる。一度私の顔を見た彼は特に何か言うこともなく着替えの為に部屋に戻ったので、その隙に私は夕飯の支度を続けた。うっかり癖で唇を巻き込もうとして、紅を差していることを思い出す。慌てて懐に入れた手鏡を取り出して顔を見ると紅はちゃんと残っていた。

「よかった」
 独り言を呟いて、私は味噌汁をよそった。今日の食事は一等上手に出来たので、こはくさまも褒めてくださるかもしれない。
「はいお待ちどうさまでした」
「おおきに。いただくわ」

 丁寧に礼をしたこはくさまが野菜の煮物に箸を付ける。今日おまけでもらった里芋はねっとりとしたいいお芋だった。暫し無言で食事をしていると、彼が何気なく口にした。

「今日、街にでも出かけたんか?」
「え?いいえ。商店街でお買い物しただけです」
「……さよけ」
 
 彼がなにを言いたかったのかわからずに首を傾げたけれど、その後彼が何か続けることはなかったのでなんとなく気になっただけだったのだろう。
 街かぁ。と私はこはくさまの言葉で思いつく。針仕事やお義姉さまのお手伝いで少し貯めたお金があるから、たまにはお洒落の為のものでも買いにいこうかしらという気になったのだ。

「あの、こはくさま。明日少し街に出てお買い物をしに行ってもよろしいですか?」
「?ええけど。欲しいものがあるんか?」
「はい」
「なら買うてええよ。ほら」
 
 そう言ってこはくさまが近くに置いていた鞄から財布を取り出そうとしたので、私は慌ててそれを止めた。
「いえ!あの、私のお小遣いを使いますので、お気遣い無く!」
 するとこはくさまが訝しげな顔で私を見た。
「……欲しいものっち、なんなん?」
 
 私は目を泳がせる。特に決まっているわけではないが、お洒落の為の道具を買いに行きますと言って万が一ため息とか吐かれてしまったら出鼻をくじかれそうだった。

「あ〜、え〜、えっとぉ……新しい、帯締めを、買おうかなって……」
「なら、これで買うてくればええ」
「だ、大丈夫です!」
 するとこはくさまはゆっくり財布をしまって、俯くようにお食事を再開させた。私も内心ほっとしつつ、しっかり煮た里芋を口にする。
 こはくさまが何を考えていたのかは、私にはこの時わからなかった。

 
 次の日私はさっそく街の美容品店に行き、悩みに悩んだ結果練り香を買ってみた。ふんわりと桜の香りがするそれはなんとなくこはくさまを思い出したからだ。

「これだったら洋装姿でもお似合いの香りですよ」
 
 店員さんがそう言うので、私は家の中にある、ほとんど着ていないブラウスとスカートを思い出す。こはくさま、というか桜河家の方々が和装をよくするので私も着慣れている和装しかしてこなかったけれど、たまには洋装もいいかもしれない。私は家に帰るなり着物を脱いでブラウスに着替えると、練り香を耳の裏にこっそりとつけた。それから紅も明るい方の色を差し、髪型も少し洋装に合わせた風に変えてみる。

「うん、うんうん、結構良いかもしれない」
 姿見の前でくるくる回ってスカートをひらつかせながら、私はこれならこはくさまもいつもと違うことに気づいてくれる。彼の帰りが待ち遠しくなったのだ。

「ただいま」
 こはくさまは、いつもより早い時間に帰宅してきた。私はエプロンを脱いで玄関に向かうと、こはくさまに向かって小走りで向かう。
「おかえりなさいませ、こはくさま」
 
 少しだけ照れくさくて前で組んだ手をもじもじとさせると、こはくさまはなぜか一度固まったように動きを止めて、それからあからさまに視線を私から外した。

「お食事には少し早いですね。たまにはお酒でもいかがですか」
「せやね。もらうわ」
「はい」

 こはくさまが私を追い越し居間に向かおうとするので大人しく付いていこうとすると、不意にこはくさまが振り向き、私の肩を強く掴んだ。

「きゃ、」
「なんか、付けとるやろ」
 
 私は嬉しくなって、思わず顔を上げる。けれどそこで見たこはくさまの顔は、私が想像したものとは遙かに違っていた。目線を細め、眉に力を入れている。明らかに怒りの表情だった。

「あ、はい……あの、練り香を」
「桜河の嫁が匂いのするもん付けるやない。自分の居場所を敵に知らせることになるやろ」
「……す、すみません」
「もう付けなや」

 怒った口調のこはくさまが、大股で居間に入っていった。こはくさまのお仕事の妨げになるかもしれないなんて、考えもしなかった。居間に戻る前に洗面所へ行き、濡れた手ぬぐいで練り香を落とす。浮かれてすっかり桜河の嫁である自覚を失くした自分が情けないけれど、きちんとこはくさまに頭を下げるまで泣かないと決め、私は緩めに結っていた髪をきつく結い直して居間に戻る。こはくさまは既にお一人、つまみも食べず手酌でお酒を飲んでいた。

「今、おつまみを」
「いらん」
 
 私に対してこんなにも怒りを露わにした声は初めて聞いた。それほどの失態だったことに今の今まで気づかない自分に失望しながらも、私はけじめとして彼に向かって額を床につけた。

「桜河の嫁という自覚に欠けた行動をしてしまい、申し訳ありませんでした」
「……」
 
 こはくさまは何も言わない。ただ凄まじい速度でお酒を空けている。
「……わしは」
 しばらくの沈黙の後、ようやくこはくさまが口を開いた。私はぐっと涙をこらえ彼の藤色の瞳を見ると、ひどく冷たい目をしていた。

「わしは、もしぬしが浮気しとってもそれはわしの器量不足のせいやと思っとる」
「……え?」
 突然の言葉に頭が真っ白になった。そんな私を置いて、こはくさまが言う。

「ぬしが他の男の方に目がいくっち言うんなら、寂しくさせたわしの責任じゃ。……そう思っとったのに、あかん。怒りで頭がおかしくなりそうじゃ」
「まって、まってくださいこはくさま」
「何を待て言うん?突然紅差して、洋装なんかして、練り香まで付けて。どこの男に色目使ったん?」
 
 静かな声が、背中に冷たい刃物を押し当てられているような感覚を呼び覚ます。怖い。脚が震えて、腰が抜けた。

「なぁ、教えてくれへん?ぬしに洋装して、化粧までして会えっち言ってきた男は誰なん?わしが殺してええよな?なぁ?人のモン盗って、のうのうとお天道さんの下歩くなんて、許されるわけあらへん」
 
 なぁ?と、こはくさまが消えるように言って、私の腕を強く引いた。そのまま今の畳に押し倒されると、とうとう私はボロボロと涙をこぼす。恐怖よりもこはくさまにこんなことを言わせた自分が情けなかった。

「誰や。郵便屋のあの男か?それともわしの預かり知らん所で、男作っとった?だとしたら、感服やわ。わしにも気づかせなかったっち、さすがは桜河の嫁じゃ」
「ちがいます……!」
 
 スカートの中に入った手が強引に内腿に爪を立てられたまま、私は一層涙をこぼしながらも爪を立てているその手を掴んだ。耳に涙が入って気分が悪いけれど、そんなもの気になるはずもなかった。こはくさまが、手を止めた。私は必死に、ガラガラの声で伝える。

「私が、私がこの姿を見せたかったのは、こはくさまです!」
「……アホ抜かせ。誰がそんな格好せぇ言うた」
「いつまでも女性として、意識してほしいから!私がこはくさまをいつまでも好きでいてもらえるように、少しでもこはくさまに、女性として見てほしいから!」
「……」
「信じてください。私、私はこはくさまが初恋で、最初で最後の好きな男性なんです。こんなに素敵な旦那さまがいて、他の男性に目がいくはずがありません!」

 最後は涙声で、でも視線はそらさないまま「信じてください」ともう一度言った。爪を立てられた内腿が離され、そのままこはくさまが抱きしめてくる。その手が優しくて、私は彼に伝わったのだと確信した。その瞬間安心のあまり、赤ん坊のように泣き崩れてしまったのだ。

「すまん……すまん、」
「こはくさまのばか!どうしてですか?!どうしてそんな疑うんですか?!私はいつも、こはくさましか見てないのに!!」
「突然いつものぬしじゃない格好をするさかい、どっかの男の好みに合わせたんやないかと思った。わしはぬしなら何を着ていてもかわいいっち思うから、わしの為じゃないと疑って……すまん。ほんまに」

 年上も威厳もなくうわあぁん!と声を上げて泣けば、こはくさまも涙に紛れた声で、ずっと謝ってくださった。時折「わしもぬしだけじゃ」と呟きながら頭を撫でてくれる、その手はもう私に爪を立てたりしない。

 その後練り香は、こっそり鏡台に仕舞い込んだ。桜の香りが気に入っていたけれど、こはくさまの言う通り桜河の嫁にはふさわしくない。今はちょっと苦い思い出だけど、きっともっと歳を取ったら微笑ましい記憶になっているかもしれない。さわやかな甘味の香りを、私はそっと桐の引き出しの奥に入れて蓋を閉じたのだ。


「なぁ、明日わし休みやから、一緒に街に行こか」
「?はい、お買い物ですか?」
「この前の詫びじゃあらへんけど、新しい着物買ったる」
「えっ!?そんな、いいです!」
「わしの気が済まん。買われてやってくれへん?もし欲しいものがあるなら、他にも買ったる。百貨店のアイスクリィムでも、喫茶店のケーキでも、なんでも食わしたる」
「……いいのですか?」
「甘えてくれると、わしも嬉しい」

 数日後の夜、少し困ったように笑うこはくさまに私は釣られて笑う。明日は買ったばかりの桜色の紅を差して、桜色の帯締めをして、こはくさまと手を繋いで街を歩こうと決めた。

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