アクアリウム・ヒーロー
ゾワっと鳥肌が立った。
夕方の満員電車内、お尻に感じる強烈な違和感に後ろを睨めば、我関せずみたいな顔したおじさんがいる。
おいコラ!何自分は知りませんみたいな顔してるんだ!お前の手が私のお尻撫でてるんだろうが!と怒鳴り散らしたいけどこんな静かな車内で勇気が出ない。もし犯人が違ったら、とか考えちゃうし、何より怖くて声が出なかった。
次の駅で降りようと思ったけれど、生憎乗った電車は快速。一駅一駅の距離が長いのである。きっとこのおじさんはそれを見越してやってる。最悪だ。
「……っ」
ぞわぞわぞわ。
うわ、気持ち悪い。やめてやめて。
あとちょっと。あとちょっとがまんすればおわる。
たすけてたすけて。レオくん。
「その手を離せ」
しかしそこで、男の人の声が静寂を切り裂いた。一瞬ザワッとした車内。思わず後ろを振り向けば男の人がおじさんの手を掴んでいた。
「全部見てたぞ。観念しろ痴漢め!」
「な、何を言ってるんだアンタ…!」
おじさんは冤罪だ!と騒いで彼に掴まれた手を離そうともがいてる、が、ビクともしていない。
すると助けれくれた男の人がスッと自分のスマホをおじさんに見せた。
「証拠に写真も撮った。言い逃れは出来ないぞ!」
その瞬間、電車がゆっくり駅に着いた。おじさんがなんとかして逃げようと手を振り払おうとしているが、そこまで言えば周りも助けてくれる。
おじさんはあえなく駅員室行きとなり、私と、痴漢を捕まえてくれた人も一緒に連れて行かれて事情を説明するのに少し掛かってしまった。駅員室から出て、私は再度彼に深くお礼を言った。
「あの、ありがとうございました。本当に…」
「なに、困っている人を助けるのは当然のことだ!」
あれ、この人よく見たらどこかで見たことある…。
「時間は大丈夫でしたか?何かご予定とか…」
「いいや。ちょうど移動だけだったし気にしないで欲しい。何より自分が急いでいるからといって痴漢を見逃すなんて俺にはできない!!」
「な、なんて頼もしい…」
じゃあ!と爽やかに手を挙げた彼は私が名乗る前に、そして名前を伺う前に颯爽と消えてしまった。けれどあの爽やかで暑苦し…熱血な感じ、私はどこで見たことあるのだろう。
なんて思いながらSNSを開いてみると、そこには『守沢千秋が痴漢捕まえてた!ちょうかっこいい!』『流星レッドやば!電車内でも悪者退治してる!笑』みたいな呟きが拡散されていた。そうだ。アイドルの守沢千秋くんだ。
「えっ、えぇ…!!」
私は今更、痴漢よりもレアな体験をした事に気がついた。なんとあのヒーロー系アイドルが電車に乗っていただけじゃなく颯爽と痴漢を捕まえてくれたなんてすごすぎる。痴漢の恐怖なんて一気に吹き飛んでしまった。痴漢おじさんよりアイドル守沢千秋、である。
「……という事があったんだよね」
「えっ!?痴漢にあったのか?大丈夫?!」
次の週、私はレオくんの家に行って、さも他人事のように話をした。するとレオくんは萌黄の瞳をまん丸にして驚いている。確かにすごい確率だ。痴漢はともかくアイドルに助けてもらうなんて。
「うんもうその辺は無かった事にした。おじさん大きい会社の重役だったみたいでアレソレがこうなって示談になって私もそれで構わないって事にしたから」
示談でも向こうは失うものが多くて正直なところいい気味である。
「そ、そっか…ショック受けてないならいいんだけど…ていうかモリサーが助けてくれたのか!仕事で会ったらお礼言っとくな!」
「ん?守沢千秋くんとも面識あるの?」
「あいつも夢ノ咲出身だから」
「へ〜業界夢ノ咲だらけだねぇ。すご…」
「セナは同じクラスだったし多分仲良いぞ。昔一緒にゲーセンのダンスゲームやったって」
「なにその対決…お金取れるじゃん」
たしかに!わはは!という台詞が来ると思っていたのに、突然レオくんが私の頭をそっと撫でてきた。あまりに突然な事に、私の方が動揺してしまう。な、なんだ。どうしたというのだろう。
「痴漢、怖かっただろ。よしよし」
少し眉を下げて笑うレオくん。あぁ、今の彼は完全にお兄ちゃんモードだと理解した私は、遠慮なく甘えさせてもらうことにした。彼が頭を撫でてない方の手を両手でぎゅっと掴み、本音をこぼす。
「…うん。怖かった」
「今まで知らなくてごめんな。おれが忙しいって思って、言えなかった?」
「ううんそうじゃないよ。守沢千秋くんの事にびっくりし過ぎて痴漢の怖さどっかに行ったから…」
「その日に連絡してくれれば駅まで迎えに行ったのに」
「そっか。そういう風に言ってくれるだけで十分だよ」
確かにレオくんを頼ればよかった。あの時助けて欲しいと思いながら自分が思い浮かべた顔は、確かにレオくんなのである。私の唯一のヒーローは、彼しかいないのだ。
「ありがとう。私のヒーローはやっぱりレオくんだね」
そう言って、おりゃ!と勢いよく抱き付けば、彼は咄嗟の事に私を支えきれず、ばたーんと後ろに倒れこんだ。
「うわっ!不意打ちは卑怯だろ!」
「がんばれがんばれ!私のヒーロー!」
「重いっ!」
「は?!」
へへへ、と笑ったのはどちらか。そんなのわからない距離で、私たちは一度だけ唇を重ねたのだった。
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