アドリアティック・ブルー

 お昼を知らせる鐘が街の中で響いてるのにふと気がついて、私は本にしおりを挟んでから大きく伸びをして読書部屋を出た。

 零様は最近お土産にと色んな本を買ってきてくれるようになったので、本を置く場所を兼ねて読書部屋をくれた。私は日がな一日そこで本を読んで勉強をしたり、零様の部屋の掃除をしたり宝石の磨き方を学んだから零様の宝石を磨いたりして過ごしている。

 この屋敷に来た時は妾という立場はもちろん時間の使い方に戸惑ったりもしたけれど、ようやく慣れてきたといえる。毎晩隣で眠る零様の少し低い体温も、今や私のお気に入りの一つになっているのだ。

 お昼ご飯の時間だからと廊下を歩いてダイニングへ向かおうとしている時に、玄関の方から零様と私を騙して妾にした側近の人の声が聞こえて、私は思わずそちらへと足を向ける。声を荒げる零様はとても珍しかったからだ。

「しつこい!何度言われようと我輩はそんなものいらぬ!」
「しかし旦那様!ハレムとは何人もの女性を傍に置くものです!後継の事を考えますと、せめてあと2、3人……」

 あ、これは私が聞いてはいけない話だ。と、私は身を隠す。元々側近の人が私を騙して零様の妾にしたのも、零様の後継を作る為ののハレムへの第一歩として仕掛けただけだったのだ。
 実は偽物の妾だということは、私と零様の秘密である。毎晩一緒に寝ることはするけれど、妾としての仕事なんてした事はない。全ては私と零様を騙したこの家の使用人や側近にひと泡吹かせる為のものなのだ。

 表面上側近の人の思惑通り零様は私を妾として可愛がっているので、これを皮切りにもっともっと妾を作ってハレムを完成させてもらう予定だったのだろう。けれど零様はそんな事をする気配すら見せず、表向きは私をとても可愛がっている。
 恐らくだが、はたから見たら私だけを溺愛してしまっている零様に焦りを感じた側近の人がまた女の子を準備しようとした、のだろう。

 先ほどの会話で全てを見抜いてしまった私はこっそりその場から立ち去ろうと抜き足差し足でダイニングへ向かおうとした、が、後ろから思い切り抱きしめられ、挙句抱き抱えられてしまう。悲鳴を上げる間もなく目の前にはあんぐりを口を開けた側近の人、私を抱き抱えたのは間違いなく零様だ。

「我輩にこの子を与えてくれた事には感謝しておるよ。こんなにも人を愛おしいと思えたのは初めてじゃからのう」
「えっ?!」
「何を驚いておる。毎晩可愛がっておるのにまだ我輩の気持ちが伝わってないのかのう?」

 よしよし。と言いながら、零様が彼を掴む私の指にキスをした。突然でびっくりしたけれど、今は妾を演じるべきだと出来る限り微笑んで私からも彼に抱きついてみせる。 
 零様は私の髪を指でかき混ぜてから、こちょこちょと耳をくすぐってきた。それがくすぐったくて思わずくすくすと笑ってしまうと零様も楽しそうに頬を緩めている。

「旦那様…!」
「なまえちゃんをあてがったのはおぬしじゃろ。我輩はこの子さえいればよい。他の女を寝室に置かれても無視してこの子と眠ったら、その子があまりにも不憫じゃろ。……余計なことはすんなよ」
「……」
「ほれ、これからお昼ご飯じゃろ。我輩も今日は家で食べるから一緒に行こうな」
「……あ、は、はい」


 私を抱き抱えたまま、零様は側近を置いてスタスタと食堂へ向かう。私を騙した人だけど、彼も彼なりに零様のことを考えての事なのだろう。そう思うと少しだけかわいそうに思えてくる。

「あやつが可哀想だと思うのなら、それはお門違いじゃよ。あやつの勝手な判断で妾にされる女の子の方がよっぽど可哀想じゃ。おぬしのようにな」
「でも私は、今は幸せだと思ってます。沢山目をかけてもらってます」
「クックック。それはなまえちゃんだからじゃよ」
「ひゃ、」

 抱っこからストンと降ろされたかと思うと、零様が頬にちゅっとキスをしてきた。このくらいのスキンシップは偽物の妾だけれどするようにしているのでベッドでは慣れたものだったけど、不意打ちなせいで思わず素の反応をしてしまう。

「未だに慣れんのうおぬしは。まぁそんな所が我輩も好きなんじゃが」
「えっ」
「毎晩してることに比べたら大したことないじゃろ」
「あ、えっと……は、はい」
「よしよし。今宵もうんと可愛がってやるからな」

 使用人の人達が周りにいる事に、ここでようやく気がついた。零様の言葉が演技である事に気がついて、私は一瞬でも勘違いしてしまった恥ずかしさを隠すように零様に抱きついて服に顔を埋める。これできっと、周りも誤解してくれるはずだ。

「よしよし。あまり可愛い事をしないでおくれ。まだ昼間じゃからのう。とにかくご飯にしよう」

 そう言って手を引いてくれる零様の低い体温を手から感じながら、私は欲張りでわがままな思いをそっと胸の中にしまったのである。

 偽物といえど妾が増えるのは嫌だ。彼が他の女の子にこういうことをするのは見たくないという。欲張りで、浅ましい願い。
 いつからこんなにわがままになったのだろうと、私は自分の中に芽吹いた嫉妬の種を咲かせないように、必死に押し殺したのだった。

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