ラピスラズリ
夕方。日もだいぶ傾き始め、砂漠に隠れていく太陽がその日最後の輝きと言わんばかりに、砂で作られた地平線を焼き尽くしては赤く落ちていく頃。侍女の人に呼ばれて従うまま付いて行けば、厚い布をめくった先には端から端まで歩いて行かないと届かないくらい大きな風呂場に通された。もわもわと湯気を立てるその湯の中に、いつのまにか仕事から帰って来ていた主人である零様がいたのである。
「おぉ来てくれたか。こっちおいで」
正面には湯から手を出しておいでおいでと手招きする零様。背後には何かを察したらしくスススと場を辞していく、私のことを零様の本物の妾だと思っている侍女の人たち。そしてそれに挟まる顔面蒼白な私の顔色をよくするのに、お風呂の湯気はあまり適していなかった。
「えっ!なっ、なんで?」
もちろん私の脳内で予想した出来事に対して、私は全力で混乱した。貧相な思考ではあるけれど嫌な予感がしたのだ。
「……そんなに怯えなくてもええじゃろ。ぶどう酒注いでもらいたいだけじゃし」
ほら。と零様が手元の杯をユラユラと振った。確かに中は空で、お酒の器は少し離れたところにある。更によく見れば零様はお風呂用なのか簡素な服を着て湯に浸かっているではないか。お金持ちの人はお湯に服に着たまま浸かるのだという事を今知って、今まで全部脱いで入っていたのが突然恥ずかしくなってくる。侍女の人が初めて来た頃に全て脱ぐよう言ってきたからそういうものかと思っていたのに、あれはサッサと身体を洗って仕事を終わらせたかったのだろうか。気にはしないが、もしそうなのだとしたら大分雑に扱われている。
「わ、わかりました」
すごすごとぶどう酒を取り杯に注げば、零様がお礼の代わりにか一つ笑ってから杯を傾けた。湯気に乗ってぶどう酒の酸味のある酒精の香りが私にまで届く。温かい湯気に包まれている分、それだけで酔ってしまいそうである。
「一仕事終えた後だとより美味しいのう。なまえちゃんも飲むか?」
「大丈夫です」
「じゃあ一緒に入るか?」
「だ、大丈夫です」
ぷい、と横を向けば零様がカラカラと笑った。また揶揄われたようで私はそれが悔しくて、お風呂の真横にあった籠の中に入った赤い花の花びらを掴んで湯の中に投げた。
「……わぁ、きれい」
空中でひらひらと舞い、お湯の上でも踊るように浮かぶ様はとても綺麗で、私は自分で投げ入れたくせについ感嘆の声を漏らしてしまう。赤い花は零様の白い肌にも黒い髪にも紅い瞳にもよく似合っていて、私は思わずそれらを暫く見つめてしまった。
「あんまり見られると恥ずかしいんじゃけど」
「ちっちがいます!見てない!」
「いやそれは苦しい」
その通りだ。ただでさえ色気のある主人なのに、濡れた髪や肩口はきっとそこいらの娘さんが見たら一瞬で心を奪われてしまうことだろう。私は零様のひどい寝相を思い出しながら、花を更に撒いてなんとか雑念を滑り込ませた。老若男女を魅了するこの人はお湯に浸かるだけで人を狂わせそうである。
「今日はなんでお風呂場に呼んだんですか?」
「なんでって…妾と風呂に入るのに理由なんかないじゃろ。侍女に見張られながら入るよりおぬしとのんびりする方が楽しそうだしのう」
偽物の妾ではあるけれど、確かに表向き、妾としての仕事は真っ当しなければならない。私はお尻が濡れるのも気にせずに脚だけをお湯に浸けて、妥協線を引いた。地面を掘って石を敷いて作られた浴槽は、お湯が波打っただけで一気に床が濡れる。零様がお湯の中をすいすい歩いて近づいてきたせいでお湯が波打ち、座っている私の太もも辺りまで勢いよく濡れた。ぐっしょりと布が張り付く感覚が気持ち悪い上に、服が白なせいで濡れた部分が透けて、肌の色が見えてしまっている。しかしその辺がもうあまり気にならないのは、いつも女官の人が用意する妾用のドレスがヒラヒラスケスケだからだろう。
「そこまで濡れたらもう関係ないじゃろ。おいで。一緒に入ろう」
「いや。ラピスラズリは水に弱いもの」
今日つけている髪飾りにはまっている濃い青の宝石は、濡らしてはいけないものだ。以前零様が他国に行った時のお土産としてくれたお気に入りの髪飾りだから壊したくないのである。そんな言い訳にもならないことを言うと、零様がお湯に浸かったまま、側のふちに腰掛けている私の膝をぽんぽんと叩いた。ついでにお湯に浮かんだ花びらを一枚摘んで膝に乗せてきたので、仕返しとばかりにその花びらを零様の頭の上に乗せてみた。それを取らないまま、零様は目を細めて私を見る。
「よくお勉強しておるのう。えらいえらい」
少し幼く見える表情はきっととても珍しい上に、彼のこの顔を知ってる人は少ないだろう。そこに微かに感じるのは紛れもない独占欲の証だ。でもその思いには、私はそっと目を逸らす。
「お勉強、楽しいですから」
「そうか。じゃあ我輩も今楽しませておくれ」
「えっ……ぎゃあ!」
結局油断した拍子に手を引かれお湯に頭からドボンと浸かった私は、その日怒りを示すべく零様から離れて眠る事にした。いつのまにか髪飾りは取られていたのでお気に入りのラピスラズリが水でだめになることはなかったけど、驚いたことは確かだ。
「嬢ちゃんこっちおいで。抱っこさせて」
「おやすみなさい」
薄く暗い夜の大きなベッドの上、背後から聞こえる寂しそうな細い声と紅い視線はとんと無視である。
でもお風呂でのんびりするのは楽しかったので、それだけは今度伝えようと思った。
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