ダイヤモンド・マイレディ2
突然だが、私には大層金持ちの婚約者がいる。
御曹司で才色兼備な、この世の欲しいもなんて何でも持っていそうな彼、天祥院英智くんは唯一、絶対的に持っていないものがあった。
健康な体である。
私は慣れない消毒液の匂いを嗅ぎながら、個室の病室…というにはだいぶ豪奢な部屋を訪ねるべく、扉をノックした。小さな声で「はい」という声が返ってくる。
「英智くん、なまえです。入っていい?」
恐る恐るそう言うと、少し穏やかになった声色で「あぁなまえ。入って」と返事が返ってきた。私は少し重たいスライド式の扉を開ける。そこは少し消毒液の匂いと、妙に花の香りがする広い病室で、その部屋の隅のベッドに、彼は座って本を読んでいた。
「具合どう?大丈夫?」
「うん大丈夫。どうぞ。こっちに掛けて」
彼はそっとベッドの横にある椅子を指してくれたので、ゆっくり部屋を見回しながら腰掛けた。その時棚にあった大量の花束に、体調を崩した彼にグループのお偉いさんが所狭しと押し寄せたことを瞬時に理解してしまう。
「体調崩して入院してるのに、余計疲れちゃったんじゃない?」
「まあ、ね。でも君が来てくれたから心労なんて全部吹き飛んだよ。今からでも退院出来そうだ」
そう宣う彼の青白い腕の先には、点滴が二つほどぶら下がっている。彼は天祥院グループの新年会に出席した際、会が終わった後顔を真っ白にして倒れてしまったらしい。年末から続いた疲れを引きずったまま新年を迎えてしまい、文字通り撃沈してしまったというのだ。
「まぁまぁそう焦らずに…。ていうかお花の匂い、強くない?何個か風下に置こうか?」
「うん、そう、だね…お願い出来るかい?」
食事制限のある英智様へのお見舞いにおじさんたちは何を持ってきていいかわからなかったのだろうか、大量の花は集まればそれだけ香りが強くなる。体調の悪い英智くんにはそれも敏感に感じ取ってしまうのではないかと思って、私は風下側にある棚に花束とかアレンジメントしたやつとかをひょいひょいと移動していった。病室がとても広いので、結構重労働だ。
「ごめんね。来てくれて早々に下働きのようなことをさせてしまって…」
「え、このくらい全然気にしないで…それより自分の体調心配してよ英智くん。大丈夫?」
「うん。やっぱり疲れとが溜まってしまったのと、元々冬は体調を崩しやすいんだ。なんとなく自分でもこの展開は予想していたよ」
「そうなんだ…」
体調を崩して倒れる展開を予想していたなんて、切ない。けれど彼にとっては毎年のことなのだろうと、今後冬は英智くんの体調には一層気を配ることを決めた。
「花、移動してくれてありがとう。お茶でも淹れようか」
「あ、まって。それも私がやるから。英智くんは座っててよ」
「ふふ、もう僕の奥さんみたいだね。じゃあ任せようかな」
「茶化すのやめてってば」
点滴がぶら下がっているのにどこか楽しそうな英智くんを後目に、私はお茶の在処とケトル、カップの場所を聞いて紅茶を淹れた。相変わらず高級な茶葉を使っているのだろう。立ち上る香りが普段私が飲んでいるものと違いすぎる。ここ最近ようやくティーパックではなく茶葉から淹れる方法に慣れた私は以前よりは手早くカップにお茶を注ぐと、彼のベッドの近くにあるサイドボードの上に置いた。
「はいどうぞ」
「何から何までありがとう。頂きます」
あまり血色のない彼の唇が、そっと紅茶を啜ったのを見て、私もカップに口を付ける。ちなみにカップも高そうなのが困り物だ。私の為に100均とかのカップを用意しておいて欲しい。
「うん、美味しい。君が淹れてくれたから余計美味しく感じるよ」
「そ、そうかな…まぁそう思ってくれるならいいや」
温かい紅茶を啜りながら、ちらりともう一度英智くんを見る。顔色はいつもより悪いし、この数日間で少し痩せてしまったような気がする。
「倒れちゃったって聞いたからほんとびっくりしたよ。数日は面会にも来ない方がいいって言われてたから、その、すごく心配しちゃった」
「心配かけてごめん。大したことはないんだ。けれど数日はグループの上役がなだれ込んでくるだろうと思ったからね。なまえとゆっくりいられないと思って」
「そうなんだ。気を遣ってくれたんだね」
「僕がなまえとゆっくり過ごしたかっただけだよ。年末も正月も会えなかったしね」
そうは言うけれど私はまさか病院の病室でご対面なんて思ってもみない再会である。どうせゆっくり過ごすなら腕には点滴針など付いていなくて、そんな入院用のパジャマを着ていない英智くんを希望したかったが、世の中そう上手くはいかないらしい。
私は冷める前に、紅茶をまた一口飲んだ。なんだかこの一杯の為に病院に来た、と思ってしまうほど美味しい。淹れたのは私なのだけれど。
「病院なんて最後に来たのいつかわかんないから、少し緊張しちゃった。面会に来るための手続きとかよくわかんなくて」
「…君、最後に病院に来たのいつだい?」
「え、えぇ〜…わかんない…小学校の頃…ううん…」
まともな風邪すらほとんど引いた記憶のない私だ。こんな大きな病院なんて、とんと縁がない。
「……僕はきっと、君の人生の十周分くらい病院に来ているよ」
「まじかぁ」
英智君の自虐は軽く流すに限る。寄り添い過ぎると演説めいた自虐を始めるからだ。そうなると本人も興奮してしまうから、ここらで適当なリアクションをしてそれを封じた。
でもきっと、彼からしたら私のこの健康すぎる体が羨ましくて仕方ないのだろうな。と思うと同情心とか、なんとも言えない母性のような物が湧いてくる。お見合いした時は単に彼の顔の美しさやその他諸々に惹かれたのは否めないが、今はちゃんと、英智くんのことが好きな私である。
「ごめんね、愚痴っぽくなってしまったよ。そうだ、桃李と弓弦が持ってきてくれたお菓子があるから食べていって」
そう言って少し笑うと、英智くんはサイドボードの引き出しから焼き菓子をいくつか取り出した。
「わぁ、食べていいの?」
「うん。僕一人じゃ多いから」
ラベルがどう見ても銀座にある有名菓子店のものだ。自分では絶対買うことのないそれに、私はおこぼれを頂く身なのについつい目を輝かせてまった。残念ながら、そんな私に気が付かない英智くんではないのである。
「なまえ。ほら沢山あるから何個でも食べてお行き。何個か持って帰るかい?」
「えっ、い、いいよ。そんなに食い意地張ってないもん」
「僕は1個食べれば十分だから。それに弓弦はわざと多めにお見舞い持ってきて、『婚約者様にもどうぞ』って言ってたし」
抜け目がない。桃李くんの執事さんには挨拶程度しかしたことないけれど、ただ穏やかなだけじゃなかった。さすがは桃李くんの執事である。
「え、じゃ、じゃあ頂こうかな…とりあえずフィナンシェ食べていい?英智くん今食べられる?」
「うん。僕はマドレーヌがいいな。袋開けてくれる?」
「いいよ〜」
私は点滴に繋がれている英智くんにベッド用のテーブルを寄せてからマドレーヌの小袋を開けた。どこかにお皿でもないかと思ったが、入院患者の部屋にはさすがにそんなものないので小袋の下にティッシュを敷いてあげた。けれどティッシュをお皿代わりにしているのが申し訳なくなってくるほど彼に似合わない。私はきっとビジュアル的にぴったりだというのに。
「ん、美味しい!さすが有名店!!」
しかし高級店のフィナンシェを食べたらそんな杞憂吹っ飛んでしまった。私も私で現金な女である。
「うん、美味しい。なまえがいるから余計美味しいね」
「そ、そう?ならよかった…」
英智くんは真顔で恥ずかしい事をすぐ言うので、私は顔が熱くなるのを感じてちょっと下を向く。一人照れてるみたいで余計恥ずかしい。
けれどそんな私の反応を楽しむのが英智君の悪癖と言っても過言ではない。小さく笑うような吐息が聞こえたと思ったら、予想だにせぬ事を言ってくるのだ。
「ね、なまえ。点滴が邪魔だから、これ食べさせて?」
彼の視線の先にはさっき半分に割ってたマドレーヌが置いてある。先ほど平然と食べていたくせに。
「……まじ?」
「まじだよ」
まじだよ。に謎の圧を感じるが、彼は親鳥からの餌を待っている雛鳥のように口を開けるので、仕方がなし、と半分に割ってあったそれを更に半分に割って、彼の口に持って行った。英智くんはそれを「うんうん」と頷きながら咀嚼すると、紅茶を一口飲んで飲み下した。
「うん、美味しい」
「よかったで〜す…」
はいもう一口、と英智くんがあ〜んと口を開ける。それに従って最後のマドレーヌを食べさせてあげれば、幸せそうに咀嚼するのでなんだか恥ずかしさよりもほっこり感、というか少し元気な姿が見られた事への安心感が上回った。私の健康っぷりを分けてあげたいくらいだ。
他人にこの元気を分けてあげたい、なんて切に願ったのは、これが初めてかもしれない。それくらい英智くんの存在は私の中で日々大きくなっていく。
「ね、英智くん」
「なんだい」
「ゆっくりでいいからさ、ちゃんと元気になってね。私でよければ明日から毎日お見舞いに来るから」
彼の冷たい手に自分のあったかい手を重ねてそう言うと、英智くんは子どものように嬉しそうな顔で笑ってくれた。
「本当?嬉しいな。毎日なまえの顔が見られるなんて、すぐ元気になれそうだよ」
「そうそうその調子。ちょっとくらい私のエネルギー吸い取るといいよ。有り余ってるだろうから」
「吸い取るってどこから?唇からかな」
「…そういうこと言ってるんじゃないんだよなぁ」
そういうのは元気になってからね。と言うと、英智くんは大きく頷いた。なんでもいいから彼の原動力になればいい。
呆れたように言った私に彼はまた楽しそうに微笑むと、何気なく呟いた。
「君が婚約者になってくれて、本当によかった…」
そんな不意の言葉に、私は何故か泣きそうになる。きっかけも、婚約した理由も大したものではない。きっと彼もそうだったに違いない。けれど私の中で、もう英智くんがいない人生など考えられなくなってしまった。しかもそれは私の独りよがりじゃなくて、彼からも向けてくれている感情なのである。
それがどうしようもなく嬉しくて、思わず泣きそうになってしまった。
「ねぇ、私もだよ」
だからあまり言ったことのない言葉を、口に乗せてみる。
「私も英智くんの婚約者…恋人になれて、本当によかった」
「なまえ…」
「また明日来るね。楽しみにしてて」
「そうだね…すごく、楽しみだ」
彼の声が少しだけ涙声になった気がしたが、追求しないでおく。私は図々しくも『お気持ち察します』なんて思いながら、お菓子の袋を片づけつつ言った。
「ねぇねぇ紅茶味のマドレーヌ食べたいから明日まで取っておいてね」
「…仰せのままに」
さっきと違って呆れた声。きっといつもみたいに「図々しいな」と思っているのかも。それとも無理矢理空気を明るくしようとしたのがばれたかもしれない。
ポーカーフェイスが得意な英智くんの表情を見るだけでは、よくわからなかった。
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