恋するミントティー・2

朝日が昇ろうとしている。
私は自然に意識を浮上させて、扉代わりに掛かっている分厚い壁掛けの隙間から、明るくなりつつある空を少しだけ見た。段々と覚醒しようとする頭を働かせるために布団の上で寝返りを打つように身体を動かす。そろそろ朝食の時間だから、身支度を整えて準備をしないと。
そう思った私の視界の端から、ニュッと白い腕が飛び出てきて、そのまま私を抱え込んでくる。私は同じ布団に誰かいる事に驚いて、思わずビクッと身体を揺らした。が、耳元で聞こえた声はとても馴染みのある声だった。

「おい、なまえ…また寝惚けてんのか…」

零様の声だ。抱え込まれたせいで、声がより近くなる。

「お前、何回言えば慣れんだよ…もう侍女じゃねーんだから、もっと寝とけ…」

そう呟いた零様は、また寝息を立て始める。彼は寝起きの時、口調が大分荒くなる。彼と布団の温もりで私はようやくハッと気が付いた。
そうだ。私はもう侍女ではなかった。この朔間の家のご長男、零様の妻なのだった。

つい先月、私は零様と結婚式を挙げたばかりなのである。大旦那様や大奥様がお義父様、お義母様として歓迎してくださったのは少し気恥ずかしくも嬉しい反面、侍女の私を娘と呼ぶのは嫌悪があるのではないかと思ったけれどそんなこと、と笑って否定してくださった。式の当日、凛月様は珍しく機嫌が良さそうだったし、凛月様の奥様は少し涙ぐみながらお祝いしてくださって、私の方が泣いてしまったのも記憶に新しい。

それより更に前、父から私の結婚を知らせる手紙がいつまで経っても来なくて気を揉んでいた私にとって、こんな幸福の塊がいきなり降りかかってきたのは喜び、というより驚きの方が大きい。まさか零様が私なんかに結婚を申し込んでくださるなんて思ってもいなかったから、零様が何年も前から父に結婚の許しをもらっていたり、朔間の親戚を説得し続けていたなんて知らなかった。

朔間家は歴史の深い大家である。その長男が侍女と結婚なんて、と反対する親戚も少なくなかったという。それを長い間時間をかけて説得してくださったというのだから、私はそれだけで幸福者だ。


けれど私の体内時計はすぐに零様、否零さんの妻にすぐなれるわけではなくて、こうして日が昇る前に目が覚めて朝食の準備をしなければ、と起き上がってしまいそうになるし、以前の自分の持ち場にふらりと姿を現してしまう。長年働いていた場所で、いきなり奥方然とした態度なんてなかなか取れないものだ。それは同僚だった侍女のみんなも同じようで、私の名前を呼んでから慌てて「奥様」なんて呼んでいる。

暫くは不慣れだろうけれど、いずれ慣れなければ。と思いながらあれからまた少し眠って、朝食までに身なりを整えた。

「ふむ、その色の服よく似合うのう」

零さんが私の着替えを見ていたようで、後ろから少しぼんやりした声が聞こえた。基本夫婦は同じ部屋で過ごすので、着替えの時も当たり前のように旦那様がいるし、寝る布団は結婚したその日から同じ物を使う。夫婦なのだから構わないけれど、少し恥ずかしい。

「そうですか?これ、凛月様…え、と、凛月さんからお祝いで頂いた布で作ったんですよ」
「さすが凛月じゃな。よくわかっておる」
「凛月さんはセンスがいいですよね。私もお気に入りなんです」
「なまえちゃん、もう敬語じゃなくていいと言っておるじゃろ。ゆっくりでいいから慣れておくれ」

あ、そうか。とハッとして、私は申し訳ありません。なんて頭を下げた。あぁ、またやってしまった。

「正真正銘、我輩のお嫁さんじゃからな。堂々としてよいのじゃぞ」
「そ、そうですよね。毅然としてないと、とは思うんです…」

零さんがふぅ、と小さくため息を吐いた。

「まぁ長いこと侍女をやっていたのじゃから、気持ちはわかるけどな。とりあえず我輩と話す時は敬語を取るように。そこから練習してみようぞ」
「は、いえ、えぇ。わかったわ」

そうそう。と零さんが満足そうに笑った。

「その調子じゃな。頑張っておくれ」

と言うと、零さんは着替え終わった私を思い切り抱きしめた。不意のことだったので、思わず小さな悲鳴をあげてしまう。

「きゃ、」
「こっちも慣れておくれ。我輩はなまえとずーっとこうしたかったんじゃから」
「あ、は、はい。嬉しいです…」
「ぐ、可愛いのう…」

日が昇ったばかりなのに、布団に行くか?と言い出した零さんの腕から、私は必死になって逃げ出した。

侍女の頃は仕事が山積みだった日中も、奥さんになった途端全て無くなってしまった。侍女を雇わない一般的な家庭なら奥さんは家事に追われ、今頃あれこれやっている頃だろうに、朔間家には侍女が何人も働いている分、私は義妹である凛月さんの奥さんに楽器を習ったり、逆に刺繍を教えたりして過ごすのが日課になった。
少しだけお料理を手伝いたいと思って台所を覗くも、零さんが侍女に言ったのか「なまえ様が勘違いして台所に来るだろうから止めてやってくれとのお達しなんですよ」と中に入れてくれない。お茶も別の人がブレンドして淹れてくれるようになったけれど、やっぱり自分でブレンドしたものが飲みたいなぁ。なんて思っていた矢先、再び凛月さんが部屋から顔を出して私の名前を呼んだ。

「なまえ〜」
「はい凛月様。ただいま参ります」
「はいお義姉ちゃん失格〜」
「あ、も、申し訳ありません…」

うっかり侍女の頃の口調が出てしまい、凛月さんが意地悪そうに笑う。

「そりゃ、長年侍女やってきたのに一ヶ月くらいで慣れるわけないよねぇ」
「あ、そうなんです…自覚が足りなくて申し訳…ごめんなさい」
「べつにいいんじゃない〜?なまえと結婚したいってワガママ言ったのは兄者なんだから」

ワガママ、といえばそうなのかもしれないけれど、私はこうして最上級の幸福を得てしまったのでそれに関しては何年も諦めずに親戚を説得して下さった零さんに感謝と愛おしさしか湧かない。しかし今回凛月さんが私を呼び止めたのは別の理由だったようだ。凛月さんは少し不服そうに頬を膨らませて、あのさ、と呟いた。

「俺さ〜、なまえお義姉ちゃんが淹れたお茶が飲みたいの。他の侍女が淹れたやつも、まぁ不味くはないけど俺が飲みたいのはなまえのやつなの」
「は、はぁ…」
「なまえだって急に仕事なくなって暇してるんじゃないの?俺の奥さんはなんだかんだお嬢様育ちだからのんびりしてるけど、なまえはそうじゃないだろうって思って。ならまたお茶のブレンドやってよ」

私の目下の悩みを、凛月さんはど真ん中に捉えてきた。その通りだ。私は既に時間を持て余してるし、お茶のブレンドくらいは自分でしたい。

「そ、そうなんです。私も出来ればそうしたいんですけど…零さんの奥さんとして慣れるまでは台所には入らないように、と言われてしまって…」
「は〜相変わらず意味不明に愛が重いね兄者のやつ…そんなのあいつの勝手な言い分なんだから蹴っちゃいなよ」
「いえ、でも自覚が足りないのも事実ですし…」
「そんなのその内どうにでもなるでしょ…そうだ」

こうしてみるといいよ。と凛月さんはまた意地悪そうに微笑んだ。


夜。夕食もすっかり終えてそれぞれがのんびりとする時間になった。私は零さんの「そろそろ寝るか」と言う声に返事をしながら刺繍の手を止めて、着ていた服を脱いで寝巻きに着替えると、布団の中に入る。2人用の大きい布団は、まだ少し緊張してしまう。

「もっとこっち、おいで」
「はい」

いい子だな。と彼の低い声が甘く腰に響く。ここ最近は頻繁に肌を合わせている気がするが、新婚なのだからと羞恥心を吹き飛ばす。何より大好きな零さんに触れてもらえるのは、涙が溢れそうなほど嬉しい。

けど、今日は少し流されないように、私の上に覆いかぶさる零さんに「ちょっと待ってください」と言った。睦み合いの戯言と思われないように、私は彼の紅い目を見て言う。

「…なんだよ。気分じゃねーのか?」

なんだか口調が荒い。早く、と急かされているようだ。けれど凛月さんが言うに、お願いするならこのタイミングだ。と言っていた。兄の事をよく分かっているであろう弟さんの言う事だ。実践するに限る。

「旦那様。お願いがあるんです」
「は?今か?」
「はい」

なんだかちょっと苦しそうに息を吐いた零さんが、一旦私の上から退いて「どうした?」と柔らかく言ってくれる。その間も手つきが少し怪しいけれど、ここで流されてはいけない。

「あの、私やっぱりお台所に立ちたいです。せめてお茶を淹れるのだけでも、お許し頂けませんか?」
「…理由は?」
「急に仕事がなくなって、少し不安になったのが一番の理由です。慣れるにはやっぱり時間が掛かるから…でもあともう一つ。旦那様に美味しいお茶を淹れてあげたいな…って思って」

勿論凛月さんに唆されたのもあるが、これは私の紛れもない本心だ。美味しいお茶を淹れて飲んでもらうのは、私の楽しみの一つなのである。それは勿論、何より旦那様である零さんに一番に飲んでもらいたい。それで、「美味しい」って褒めてもらいたいのだ。

「ふむ……そうじゃな。全て奪ってしまうのは確かに可哀想じゃった。すまなかった」
「そんな、私こそワガママを言ってごめんなさい。奥さんとして自覚が足りないのも分かってます。でも、私も役に立っている事を実感したいんです」

なるほど。と言うと、零さんは私の髪を撫でてから、頬をこしょこしょとくすぐってきた。
 
「可愛い奥さんのワガママに、男は敵わないもんなんじゃな」
「は、はぁ」

ありがとうございます。と、私は彼に擦り寄った。私の大好きな旦那様は、いつだって優しい。

「まぁその代わりといってはなんだが、」

しかし零さんはそう呟くと、再び覆いかぶさってくる。彼の唇が私の耳を食み、思わず肩が揺れてしまった。

「俺のワガママも聞いてくれるよな?」

私の言い分を聞いてくれたのが嬉しくて、素直にはい。と頷いたのがいけなかった。次の日はお茶のブレンドがどうのなんて言ってられないほど全身の倦怠感が酷くて、私はあのタイミングでお願いをするのは二度とやめておこうと誓ったのである。

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