アクアリウム45


「…あれ」

授業が終わってから、バイトのために化粧を軽く直そうかと思った所でようやく気がついた。私は小さなメイクポーチを探りながら一度「うーん」と記憶を探る。そういえば家にも見当たらなかったかもしれない。

「どうしたの〜?」

トイレで偶然会った友人が私の異変に気がついたようで声をかけてくれる。私の持っているポーチの数倍も大きいメイクポーチから新品らしきハイブランドなグロスを取り出して塗り始めた所を見ると、以前愚痴っていた社会人の彼氏とはまだ続いているのかもしれない。彼女が自分で買った可能性も捨てきれないが。

「ううん。そういえば結構前から口紅が一本無いなーと思っただけ…。安いやつだけど色気に入ってるからリピートしたんだよね」

「どっか置き忘れちゃったんじゃない?」

「うん。そんな気がする…」

私はいつも愛用しているプチプラの口紅を一体いつ頃から見てないのかぼんやりと考えたが、あいにく全くと言っていいほど思い出せなかった。そもそもバッチリ化粧する日も少ないし、何よりあまりこだわりがないからもしその口紅がなくても気にせず別のもので代用したりする。

「まぁまた買えばいいんだけどね。買ってまだあんまり使ってなかったから」

「うわ〜それショックじゃん。彼氏の家とかに置き忘れたりしてない?」

そう言われてハッとした。そういえばつい2週間前くらいに泊まった時、バイトの時間に遅れそうになったからとバタバタ彼の家を出てきたのだ。突然湧いた可能性に思わず「あ」と呟けば、すっかり赤くなった彼女の唇が少し意地悪そうにニンマリと上がった。

「やだなまえ、もしかして浮気防止の為にわざと置いてきたんじゃないの〜?」

「……いやいや」

浮気後にどこからかコロリと転がって出てくる見知らぬ女の口紅。なんて、安直にも程がある。第一あの彼女よりも仕事、というか作曲作業に没頭してしまうようなレオくんが、もう一人女を作って器用に浮気している姿とか、想像つかない。我が彼氏ながらそういう事に関しては本当に下手クソそうである。

「でも本気で可能性あるかも。ありがとう聞いてみる」

「見つかるといいね〜!じゃあね!」

少し楽しんでるように弾んだ声がなんとなく腑に落ちないが、とりあえず返ってこないであろう連絡を一応しておいた。そろそろ詰まっていた仕事は終わっただろうか。私だって、彼に会いたい。

『レオくんお仕事お疲れ様。まだ忙しいかな?』

『もし仕事が終わったらでいいんだけど、もしかしたらレオくん家に忘れ物してるかもしれないんだよね。探しに行っていい?ていうか私の口紅見かけなかった?』

恐らく早くて明日の夜とかそのくらいに返事があるだろう。と踏んで、大人しくバイトをこなした。何事もなく仕事を終えて、帰りがけにスマホを開く。すると比較的早い段階で返事が来ていた。

『仕事おわった!』

『家来ていいぞ!ちょっと汚いけど!』

『待って片付ける!片付けるから明日来て!』

『朝から来て!!』

相変わらず長文でメッセージを送ってこない所が彼らしくて一人笑いながら、仕事で疲れてるんだから無理をしないでほしいという旨と、部屋が汚いのはいつもであることをからかったメッセージを送っておく。明日はちょうど祝日だから、朝とは行かなくてもお昼前には彼の家に着く算段にしよう。などと言うことを考えながら、そういえば口紅の事はすっかり忘れられたな。なんて呑気に思っていた。

次の日、午前中のうちに家を出た私は一応『今から行くよ』というメッセージを入れてから家を出た。運が良ければ起きているかもしれないが、基本は朝型とはいえ不規則な生活を送る彼の事だから寝ている事も大いにありうる。勿論それを本人も見越しているから合鍵は私のキーケースの中にあるし、彼は「朝から来て!」などと言うのだ。自分が寝てても入ってきていいよ。と言ってくれるのはなんとなく彼女の特権のようで嬉しい。

しかし大層珍しく、『わかった!』という返事が返ってきたのには、少しばかり驚いた。昨日までみっちり仕事をしていたというのに、案外タフである。
反面すぐ彼の眩しすぎる笑顔が見られると思うと嬉しくて、私は地下鉄からの乗り換えで登る長い階段をエスカレーターを使わず登ってしまったのだった。

私の家から彼の家までドアツードアで大体30分。駅からほんの少し離れた所にある彼のマンションまで早足でたどり着くと、私は意気揚々とインターフォンを押した。合鍵はあるのだけれど、起きていてくれるのなら出迎えて欲しいかも。という少し面倒なワガママである。案の定、ほんの数十秒で部屋の扉が開いた。

「おはよ〜。起きてるのめずら」
「なまえ!」
「うわぁ!」

こちらがまだ言い終わらないうちに、レオくんがほぼ突進くらいの感覚で抱きついてきた。こちらは開いたドアに手を掛けていただけの無防備状態だというのに、背は低いとはいえ大の男がほぼ100%の力で突進してきたら後ろに倒れ込むに決まっているだろう。不意を突かれて転びそうになった私を、謎の反射神経でなんとか支えきったレオくんの完全ワンマンプレーにより、なんとか大惨事は免れた。

「あぶな!なまえ大丈夫?!」

「ま、まぁね…」

元気なのはいいことである。そう諦めて、私は開いたまま繰り広げられた珍事に僅かにため息を吐きながら、後ろ手で玄関の扉を閉めた。現役を引退したとはいえ彼は元アイドルだ。未だに過激なファンがいて彼の家を突き止めてたりしたら私の身が危ない。鍵をきちんとかけてから、靴を脱ぐために振り返る

「うわっびっくりした。何してるの?」

すると玄関の置いてあるサンダルを履いたまま、私のすぐ背後にレオくんがまだ立ち尽くしていた。いつもならすぐ部屋に戻るというのに、どうしたのだろう。

「ん、ん〜、なんでも…」

しかも歯切れも悪い。スマホでのメッセージや出会い頭のテンションが木っ端微塵に吹き飛んでいる。

「…なんか唐突に元気ないけど大丈夫?」

「大丈夫だ!おれは元気だし、すごくなまえに会いたかったからなんの問題もない!!」

そう言ってまだ狭い玄関でぎゅーっと抱きしめられた。

「あたた、痛い痛い」

ほらほら家入ろ。と彼の背中をぽんぽんと叩いたけれど離れてくれる様子がなかったので諦めた私は暫く彼の好きにさせてみた。彼が人の言うことを聞かない事など重々承知だ。しかし人の首に顔を埋めてあからさまにすんすんと匂いを嗅ぎ始めた始めたので、さすがにひっぺがした。

「ちょっと、匂い嗅ぐのはやめて」

「なんで」

「なんで?」

こちらが聞きたいくらいである。いつもより妙にベタベタと触ってくるし、少し珍しい反応だ。

「だって…会うの久しぶりだから」

その通りだ。その通りなのだが、彼は基本何ヶ月も彼女である私を放置する常習犯ではないか。そんなものは自分でもわかっているだろうに、なぜ今更そんな事を言い出すのか。

怪しい。

私の第六感がそう告げた。普段と違うリアクション、どこか後ろめたそうな態度。そして今思えば、彼にしては妙に会いたいアピールをしてきた。なぜだろうか。

まさか、と私はこの前友人が言っていた言葉を思い出す。

『浮気防止の為にわざと口紅置いてきたんじゃないの〜?』

そこから勝手にその言葉を変換して、新しい言葉に変えて、疑問を作り上げた。

まさか、多分ありえない。彼はそういう事に関しては自他共に認める程下手くそな男である。いや、実際今、もし私に隠し事をしているのならば、呆れ返る程下手クソではないか。もう既に私は疑っている。勿論彼を信じていないわけではないけれど、なんかいつもと違うのだ。なんというか、全体的に余裕がない。
ここから算出される答えを、私は残念ながら一つしか持っていない。

確かめなければ。


思えば、この環境で互いに浮気をしなかった、という方が珍しかったのかもしれない。

元々そこまで恋愛体質ではない私は放って置かれても寂しくて他の人、などという奇行に走ることもないし、レオくんはレオくんで本気で仕事が忙しいから浮気なんてしている暇もない。というか彼は基本、他者にそこまで自身のエネルギーを費やすことに向いてない。もし彼がもしその辺とても上手だったとして、わざと仕事だと偽って他の女と会っているのなら、私は本気で彼の演技力と抜け目のなさに賞賛を贈ってしまう。作曲家としても才能を如何無く発揮しているけれど、俳優でもやってみなよと真顔で勧めてしまいそうである。

彼はありとあらゆることを呪文のように時には演説のように話す癖があるけれど、その実肝心な部分ではどうにも言葉が足りない、というより下手くそな人なのだ。

だからほら、なんかちょっとした違和感だってのにもう私に気付かれている。

「レ、レオくんそろそろ離してよ。寒いから中入ろ」

「ん〜…」

なんだかぼんやりしている小柄な、といっても私よりは身長のあるレオくんをどうにかひっぺがしてから、一応額にぺたりと触ってみた。熱があるわけではない。顔色も悪くないし、なんなら少し気色ばんでいる。

「まだ早いから作んないけど、お昼ラーメンでいい?」

そう言うと、私は来る前に寄ったスーパーで買ってきたものを見せる。お昼は面倒なのでインスタントラーメンに野菜炒めを乗っけたやつでいいだろう。と、豚肉とカット野菜、それからラーメン2食分買ってきたのだ。

「醤油と味噌があるけど」

「おれ味噌!」

「いいよ」

私はべつにどっちでもよかったので特に反論しないまま、とりあえず手洗いうがいを済ませてから冷蔵庫に肉と野菜を入れる。ついでに紅茶でも淹れるか。と、ケトルを引っ張り出して水を入れようとしたところで気がついた。

「…あれ?」

洗った食器の水気を切っておく為に使う洗いかごに、なぜか私がいつも使ってるマグカップが濡れたまま置いてあった。べつに私専用ではないので持ち主の彼が何を使おうが構わないが、わざわざいつも使っているものではないマグカップを棚から出して使うのは違和感しかない。

「レオくん、マグカップ今これ使ってるの?」

「え?!」

それなら別のを使おうかな、と言おうとしただけなのに、レオくんが妙に過剰な反応を見せた。

「いや、最近これ使ってるなら私はべつの…使おうかなって…」

「いや、いい!おれはいつもの使うから!おまえはそれ使って!」

「んん…うん」

なぜか慌てたように、いつも以上に口を早くしながらまくし立てるレオくんに、また私の疑念が濃くなる。もしルカちゃんが来ていたとしたら100%そう言うに決まってるし、彼の友人である瀬名さんに関しても同様である。こちらが聞かなくても絶対に誰がマグカップを使ったか、というより誰が訪ねて来たのかを言ってくる彼が、焦るようになにかを隠した。

もしかして、私には言えない人物でもやってきて私が愛用しているマグカップを使ったのだろうか。
昨日、部屋を片付けるから今日来て欲しいと言ったのは、もしやそれが理由?

え、これもしかして本当に浮気?

靄のような、霞のような疑惑が一瞬にしてくっきりとした輪郭を持ち始めた。

私の与り知らぬ所で、他所の女とここでこのマグカップを使って紅茶でも飲んだというのだろうか。
鉛の玉でも飲み込んだかのように胸が重くなって、胃の辺りがチリ、と火花でも出しそうなくらい熱くなった。そんな体に反比例するように、顔は血の気が引いたかのように冷たい。いやだ。浮気とか信じられない。やだ。仕事で構ってくれないのは構わないけれど、他の女に取られるのだけは我慢ならない。

しかしそんな反面、まだ何かに縋りたい自分もいた。
証拠としてはまだ足りない。まだ、確信を持つには早い。

そんな風に不安定な心をぐるぐるとかき混ぜながら、なまえはお湯を沸かして紅茶を淹れる。味なんか、よくわからない。そしてそれは目の前でそわそわと紅茶をすするレオくんも同じなようで、どこか落ち着きがない。元々落ち着きのかけらもない人だけれど、今日はほんとに顕著だ。

「ね、ねぇ…レオくん。何か、あった?」

「えっ!?」

ストレートに聞くのが怖くてオブラートの上に更にオブラートを被せれば、またもやレオくんが過剰な反応を見せる。

「い、いや…なんかいつも以上に落ち着きないから。なんか…隠してる事、とか、あるのかな……って…」

もはや私もしどろもどろだ。しかし肝心のレオくんが予想以上に狼狽える。なんだこれ。ほんとに浮気してんじゃないのこいつ。

「そ、そんなことないぞ!おれは元気だ!!」

「それはわかったってば」

ラチがあかない。私はこっそりと湧いた苛立ちも一緒に紅茶で飲み下す。

「な、なぁ。なまえ…」

「なに?」

「きょ、今日…泊まって、いく?」

まさかの問いだ。そんなこと聞かれたことなどなかったのに、急に聞いてくるのは本格的に怪しい。浮気相手と私が鉢合わせないように段取りを取ってるようにしか聞こえなくなってきた。私は少し苛立ったような声で、呟くように返事をした。

「…そのつもりだったけど、迷惑、かな?」

「そんなことないっ!」

「そう?でも、そんなこと聞いて来たことないじゃん」

「うっ、だ、だって…」

そう言い淀んで、もごもごと曖昧な声を漏らしている。私はいやに冷静だった。冷静というより、真冬に氷水をバケツいっぱいかぶった気分だ。しかし私のタイミングの悪さといえば、ここ一番で輝いてしまうものなのである。



そんな気分で鬱々とキッチンで紅茶を飲み終えたマグカップを洗っていたせいだろうか。

「ぎゃっ」

適当に転がしたマグカップの側面に水道の水が当たって跳ね返り、その跳ね返った水は私のお腹辺りをめがけて飛んで来た。

何も考えずに思い切り水道の蛇口をひねったのは私が悪いけれどまさかそんなに思い切り水が反射してくるとは思いもしなかった私は来ていたシャツを濡らしてしまい、こっそりため息を吐いた。残念ながら少し濡らした程度ではなく、思い切りひねった蛇口の水がそのまま反射してきてしまったのだ。

「うわぁやっちゃった…」

「なまえ?どした?」

何事かと少し慌てたレオくんがこちらにぱたぱたと駆けてきた。

「あ、ごめんごめん。水飛ばしただけ…」

そう言ってレオくんの方に振り返ったら、少しばかり驚いたような顔のレオくんがいた。確かに私のカットソーはお腹の辺りがびしょびしょだ。

「飛ばしたどころじゃないだろ!びっちょびちょじゃん」

「いやカップに水が跳ね返って」

「着替えたら?風邪引くぞ」

うん、そうする。と、私はレオくんの寝室に置かせてもらっている着替えを取りに行った。確か長袖のシャツを1枚置いていたはずだ。

「…あれ…?」

けれどそのシャツがいつも置いている所に見あたらなくて、私は首を捻った。家に持って帰った記憶はないし、しまい間違える事もあまりないはずだ。仕方なしに別のものを着て、びっしょり濡れた服はそのまま洗濯機に入れてしまおうと脱衣所にある洗濯機の蓋を開けた。中には少しだけ洗濯物が入っている程度だった事に少し関心しながら一応色柄物がないかを確認しようと中を確認すると、そこから私がさっき探していたシャツが出てきた。一度手洗いしたのか、濡らして絞ったような形跡がある。

「…え、なんで……」

私は暫くこの家に来ていない。そもそもこのシャツは確か前回この家に来た時に着て、洗ってから帰ったはずだ。誰が、誰かが着たのだろうか。
私は氷の塊で頭を殴られたかのような衝撃に目眩がした。先ほどのマグカップではまだ疑念の芽が生えた程度のものだったのに私が想像したくない方向に、想像出来なかった方向にどんどん引きずられていく。

私は見ないふりをするように洗濯機に濡れたカットソーを詰め込んで、スイッチを押した。

誰が着たのだろう。私のシャツ。

誰に着せたんだろう。

まだ彼が浮気していると決まったわけでもないのに、自然と目が熱くなった。じわりと滲む涙を大げさに拭いて、私はリビングに戻る。するとレオくんが心配そうに私を見た。

「寒くないか?」

「うん。ありがと…」

「…なんか、元気ないな?どうしたの?」

レオくんが心配そうに首を傾げている。その姿はいつもの彼なのが余計に不安を感じてしまう。もし浮気していてこんなに証拠残して平然としているのなら、私は彼の事を、本当に何も知らなかったのだろう。
私はローテブルを挟んで彼の正面に座ると、意を決してレオくんの目を見た。

「ねぇ、レオくん。洗濯機の中に…私のシャツ、入ってたんだけど…」

「!!」

レオくんがギクッとしたように身を縮こませたのを、私は見逃さなかった。そのリアクションに思わず泣きそうになってしまう。

「…誰かが着たの…?」

「あ、いや、ちが、」

「ねぇ、あんまり…疑いたくないんだけど、さ」

「違う!!おれが使った!!」

思わず涙が引っ込んだ。なんだこれは。使ったってなんだ。嘘が下手にもほどがある。

「いや、嘘下手でしょ…さすがに騙されないよ」

「嘘じゃな…!い、いや、その…」

妙にもじもじと慌て出すレオくんを私は冷静に見つめながら、なんて切り出そうかと思考を巡らせていた。もし本当に浮気していたのならどうしよう。私は許せるのだろうか。それ以上に、彼に別れを告げられないだろうか。
不安で、とうとうぽろりと涙が一粒頬を伝った。
それを見たレオくんはびっくりしたのか、ローテーブルを挟んで座っていた私の傍によつんばいで近づいてくると、肩をガシリと掴まれた。

「いた…」

「待ってなまえもしかして浮気とか疑ってない?!」

その言葉で私の涙腺がガタガタと崩れさった。ボロボロとこぼれる涙を拭く余裕もない。けれど言いたい事は言うべきだと、私はぐちゃぐちゃな涙声で反論した。

「だって…だって私のシャツ、誰か女の子に貸したんじゃないの…?もしルカちゃんに貸したんならそう言うじゃん…。マグカップだってそうだし、思えば昨日から妙に構ってくる感じもいつもと違うよ…」

そう言ってべそべそと涙を拭けば、レオくんが口をあんぐりと開けている。呆然、と言った様子のようだ。しかし私にはそんな彼を見る余裕もない。一度息を飲み込むと、なるべく感情的にならないように、言葉を選んだ。

「ねぇ、もしその…う、わき、とかしちゃったなら…正直に…」

しかしそう言った瞬間、私の視界がぐるりと反転した。そのまま彼が思いきり私に抱きつく。私は反射的にレオくんを押し退けようとしたけれど、その細い腕のどこにそんな力があるのかと思うほど強くて、抜けられそうになかった。

「いた、レオくん、ちょっと…!」

「浮気なんかしてない!!おれの事疑ってんのか!!」

浮気男の定番の台詞を吐いた彼に、私の頭はカッと火がついた。

「そうは言ったって疑わしい事ばっかしてるのそっちじゃん!!」

涙は引っ込んだ。それと反比例するように苛立ちが募ってきて、逆ギレかとこちらまで怒りでボルテージが上がる。
けれどレオくんは私の苛立ちに呼応するように声を荒げる。

「疑わしい!?なんでだよ!!今日会えるのずっと楽しみに仕事がんばってきたのにっ!!すっっごい苦手なディレクターに何度も意味のわからないリテイク出されたけど向こうの要望通りの曲作ってがんばったのに!!今回の作品はバッハにもシューベルトにも忌まわしきモーツァルトにさえ嘲笑された上に足蹴にされそうな出来で正直あんまり世に出したくないけどプロがそんな風に意地張るのはもっと愚かだって笑われそうだから虚無顔で提出したのに!!!」

早口過ぎて半分ほど聞き取れなかったが、多分何かしらの弁明をしているのだろう。そうはいくかと私も負けじと反論した。

「いやシャツ!!私のシャツ誰が着たのって言ってんの!!レオくんが着たの?!なんで!!」

そこでレオくんが大声で叫んだ。

正直大声で、叫んでほしくなかった。



「おれが昨日の夜!!オカズにしたの!!!」



頭の中の、言おうとしていた言葉が全て吹っ飛んだ。

「…は?」

しかし頭に血が上っているのか、恥ずかしげもなく恥ずかしい事をべらべらとまくし立て始めた。上から覆い被さられて抱きつかれたまま聞きたくない言葉である。が、レオくんはあまりに必死なのか、再びぎゅうと思い切り抱きつくと必死な声で言葉をつなぐ。

「だって、最後にしたのいつかわかんないじゃん!おまえって性欲あんまりないの!?おれはずーっとしたくてしたくてでも我慢して仕事がんばってたのにエロい妄想頭から離れないからシャツとマグカップでどうにかなまえのいない寂しさに耐えたのに!!浮気ってなんだよ!!浮気なんておれがするはずないだろこんなになまえが好きなんだぞ!!」

「うわ…ご…ごめ…」

「そういうなまえは浮気とかしてないよな!?もしそうなら出さない!!もうこの家から!!」

「こわ…してないよ浮気なんてするはずない…」

ほんとに?ほんとう?いやだ浮気なんてするな。と、なぜか私が浮気でもしたかのような言い回しをしながら急にしおらしくなったレオくんの頭をよしよしと撫でて、私はなぜシャツが事前に手洗いされていたかを察した。ついでにあれだけ早く来て欲しいと言い出したり、来た瞬間妙にベタベタしてきたり、ついでに今日泊まるかどうか聞いてきた意味も察してしまった。

浮気してるのを隠すための方便でしょ。と言いたくもなってしまうかもしれないが、やはりレオくんはレオくんで、まだまだ明るい真昼にぎゅうぎゅう抱きついてくる彼の事を信じるほかないのである。そしてもし彼が浮気したら私はきっとすぐ気がつくだろうと悟った。嘘が下手すぎるところも結局大好きなんだよな…と、私は彼のきれいな黄緑色の瞳が燃えるように熱くなっているのを、ため息をつきつつ受け入れたのである。


ついでに私がずっと探していた口紅は、なぜか彼のベッドの上に転がっていた。つまりはそういう事かと、今回は目を瞑るしかない。

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