慕うカモミールティー・2
髪が短い妻を迎えて、少し経った。この辺の地域では髪の長さや多さが美しさの象徴で、それを理由に結婚を決める者もいるくらいであるのに、妻は火事で髪が焼けた妹のために自分の事も省みず髪を切り落としたと言う。それを聞いて、なずなは彼女と結婚してよかったと心の底から思った。彼女のいじらしくも切ない自己犠牲に寄り添いたいと思ったのである。
「なぁ、髪結構伸びてきたな」
その日の夜、妻が寝る前に髪を梳かそうとしているのを見ながらなずなはポツリと呟いた。結婚した頃は肩にすら付かないほど短かった彼女の髪は、鎖骨に届くくらいになっている。妻はなずなの声に振り返ると、嬉しそうに笑った。歳はなずなとそう変わらないくらいだというのに、笑うと幼くなって可愛らしい。
「なずなさんがお土産にくれた香油が髪にすごくいいんです」
彼女は瓶からとろりとした香油を手に取り、もみ込むように髪につけると櫛を手に取った。そこでなずなはピンとくる。やってみたかった事を思わず口に出したのだ。
「なぁ、それおれがやってもいい?」
「え?」
「髪梳かすの、やってもいいか?」
「えぇっ?!」
この地域の女性にとって、髪は大切な人にしか見せない、触らせないほど大切なものだ。それに触れられるのは彼女自身や家族の女性、もしくは夫である自分だけなのだから不意にその特権を味わいたくなったのだ。
妻は戸惑うように慌てて櫛を手から取り落とした。それを拾おうと俯くと、つるりと彼女の髪が肩から落ちて、前にかかる。髪の向こう、微かに見えた耳が赤くてなずなは気をよくした。嫌がっているのではない。照れているのだという事が確定したからだ。
「えっと、その……」
「まぁまぁ」
未だ返答に困っている妻を丸め込み、なずなは櫛を手にした。その隙間に、先程妻が焚いていた香の煙る匂いと香油の瑞々しい香りが混ざり合う。なずなと妻の夫婦の部屋には、よくこの香りがするのだ。家に帰ってきた、という実感がより湧いて、なずなは更には気をよくした。夜のこの一瞬の憩いの時間がたまらなく好きで、それは彼女と結婚したからこそ得られたものだ。大切にしたい。
「やりたいって言ったけど初めてやるからさ、痛かったりしたら遠慮なく言ってくれ」
「は、はい」
なずなは彼女のまだ肩甲骨にも届かない愛おしい髪の先をそっと手に取ると、櫛を少し寝かせるようにつむじ辺りに当てて、そっと下に向かって梳かした。力任せにやってはいけない。そっと、髪の絡まりを解くように梳かすと、二度目からは引っかかる事もなくするんと髪が櫛を通り抜けていく。満遍なく櫛を通しながら、つい空いてる方の指で髪を撫でるように触れば、段々と彼女の肩の力が抜けていくのがわかった。
「……気持ちいいか?」
「はい。なずなさん、とってもお上手です」
「そ、か」
「はい」
妻が微睡んだような柔い声を漏らして、なずなは先ほどよりも身に力を入れる。「ふふ、」と笑ったのはきっと無意識で、大切なものを自分に預けてリラックスしてくれるのが嬉しいはずなのに、つい身を重ねた時敷布に散らばる彼女の髪を思い出していた。そんなつもりはなかったのに、指先が熱くなる。
そのまま腰を引き寄せて抱きしめてしまいたい衝動に駆られながらも、なずなの真面目な部分が僅かな警鐘を鳴らしてそれを留めてくれている。髪は綺麗に梳かないと伸びないと以前言っていた。ならばこの行為は髪をすぐに伸ばしたい妻にとっては非常に重要なことだ。それを自分からやりたいと申し出ておいて投げ出すのは、なずなの頑固な部分が許さない。
その刹那、微かに彼女の汗の香りがした。今日は特に暑かったからだろう。香油の香りと、彼女自身の香りに次第に余裕がなくなっていく。
「あの、なずなさん。もしよかったらたまに、こうして髪を梳かしてくださいませんか?」
「え、あ、うん。もちろんだけど……いいのか?」
「はい。まだみっともない頭ですけれど、なずなさんが大事にしてくださるのが伝わって、その、嬉しいです」
「みっともなくなんかないだろ。おまえの優しさと強さの証なんだから、そんな事言うな」
自然に思ったことをそのまま口に出せば、妻は涙ぐんだ声で「はい」と言う。その時彼女が涙を堪えるためか更に俯いたせいで、髪の隙間から白いうなじが現れた。黒い髪と白いうなじのコントラストがなずなの理性をじんわりと溶かしてくる。
衝動的にそこへ口付けると妻はびくっと身体を震わせ、小さく甘い声を漏らした。拒否されないのをいい事に、なずなは「いいか?」と呟く。勿論この言葉の奥深い部分に彼女も気づいている事だろう。小さく返事をした声は、彼女の髪のように艶やかに滑り落ちていく。
彼女の寝巻きにそっと手をかけると、頬を赤くした妻が振り返る。まだ短い髪が、香油と彼女の香りを振り撒いてくるのが扇情的で、なずなは櫛を遠くに置くとそっと妻を押し倒した。
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