訓練終了の合図が響く。
「今日はここまでや!」
保科副隊長の声で隊員たちが一斉に解散していく。
「はぁ〜疲れたぁ!」
「飯!飯!」
伊春たちが賑やかに話しながら更衣室へ向かう中、レノも装備を外し始める。
「……。」
右手を動かした瞬間だけ、小さく眉を寄せた。
ほんの一瞬。誰も気付かない程度の表情。
「レノ、行こうぜ!」
「ああ。」
何事もなかったように歩き出す。
その時だった。
「市川くん。」
後ろから柔らかい声がした。
振り返ると、救急箱を抱えた李灯が立っていた。
「杜鵑班長。」
「ちょっといいかな?」
「……はい。」
医務室へ案内される。
「そこ、座って。」
言われるまま椅子に腰掛けた。
「右腕。」
「……え?」
「痛いよね。」
一瞬だけ息が止まる。
「どうして……。」
「射撃訓練の最後。」
李灯は穏やかに微笑んだ。
「リロードする時だけ少し動きが遅かった。」
「……。」
「右肩を庇ってたでしょう?」
図星だった。
レノは視線を逸らす。
「……大丈夫です。」
「うん。」
優しい返事だった。
でも次の言葉は少しだけ厳しかった。
「大丈夫じゃないから来てもらったの。」
「……。」
「見せて。」
ゆっくり袖をまくる。
紫色になり始めた痣。
「やっぱり。」
李灯はため息をついた。
「いつから?」
「午前の組み手です。」
「そのまま午後も訓練したの?」
「……はい。」
「どうして言わなかったの。」
責める声ではない。
だからこそ答えに困る。
しばらく黙ったあと、小さく口を開く。
「これくらいで止まるわけにはいきません。」
「……。」
「みんな頑張ってます。」
「俺だけ休めません。」
その真っ直ぐな瞳を見て、李灯は少しだけ切なそうに笑った。
「市川くん。」
「はい。」
「頑張ることと、無理することは違うよ。」
その一言にレノは目を瞬かせる。
「怪我を隠して悪化したら。」
湿布を貼りながら続ける。
「数日休まなきゃいけなくなるかもしれない。」
「……。」
「それって、市川くんが一番嫌でしょう?」
言葉が返せなかった。
図星だった。
「私はね。」
包帯を巻く手はとても優しい。
「みんなに強くなってほしい。」
「でも、それ以上に。」
少しだけ手を止める。
「元気でいてほしい。」
「……。」
「だから無理はしないで。」
レノは静かに俯いた。
その言葉が胸の奥へ落ちていく。
「……すみません。」
「謝らなくていいよ。」
李灯はふわっと笑う。
「約束して。」
「え?」
「怪我したらちゃんと来ること。」
「でも……。」
「約束。」
少し困ったように笑う李灯。
その笑顔に負けた。
「……分かりました。」
「うん、いい返事。」
その笑顔を見ていると、不思議と胸の力が抜ける。
湿布を貼り終えた李灯は、カルテを閉じた。
「よし、今日はこれで終わり。」
レノは包帯の巻かれた腕を見つめたまま、小さく頷く。
「……すみませんでした。」
「ん?」
「怪我を隠して。」
「反省した?」
「……はい。」
しゅん、と肩を落とした姿は、さっきまで訓練で真剣な表情をしていた隊員とは別人のようだった。
李灯は思わず口元を緩める。
「じゃあ、もう怒ってないよ。」
「……。」
「市川くん?」
レノは少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「呆れられたかと思いました。」
その一言に、李灯はきょとんと目を丸くする。
「え?」
「……。」
「そんなわけないじゃない。」
優しく笑ってカルテをめくる。
「むしろびっくりしたよ。」
「?」
「この前アドバイスしたこと。」
資料をレノへ向ける。
「全部改善されてる。」
「……。」
「重心も。」
「姿勢も。」
「射撃フォームも。」
「瞬発力も。」
一つ一つ指で示していく。
「ここまで全部直してくる人、なかなかいないよ。」
レノは目を瞬かせた。
「……本当ですか。」
「うん。」
李灯は嬉しそうに笑う。
「すごいね。」
「頑張ったね。」
その一言だった。
レノの耳が、じわっと赤く染まる。
「……。」
胸の奥が少しだけ熱い。
こんな感覚は初めてだった。
保科副隊長に褒められる時とも。
カフカに励まされる時とも違う。
“頑張ったね”
その言葉が、真っ直ぐ胸に届く。
「市川くん?」
「……あ。」
「ぼーっとしてる。」
「す、すみません。」
慌てて姿勢を正す。
李灯はくすっと笑った。
「でも、本当に偉いよ。」
「努力を結果にできる人は強い。」
「だからこれからも続けてね。」
レノは小さく息を吸う。
「……はい。」
少し間を置いて。
「杜鵑班長。」
「なに?」
「もっと。」
「?」
「もっとアドバイスください。」
「え?」
「もっと強くなりたいです。」
「だから。」
真っ直ぐな目で見つめる。
「俺に足りないところ、全部教えてください。」
李灯は思わず笑ってしまう。
「ふふっ。」
「そんなに?」
「はい。」
即答だった。
「杜鵑班長の言うこと、全部正しかったので。」
「だから次も教えてください。」
李灯は困ったように笑う。
「そんな期待されると緊張しちゃうな。」
「期待してます。」
「ふふ。」
「分かった。」
カルテに新しくメモを書き込む。
「じゃあ次の課題。」
レノの身体を見ながら考える。
「肩周りの柔軟性。」
「体幹。」
「あと、疲労が顔に出にくいから。」
レノは首を傾げる。
「顔?」
「うん。」
「だから無理してても気付きにくい。」
「……。」
「今度からは私が見つける前にちゃんと申告すること。」
「……はい。」
「約束。」
「約束します。」
李灯は満足そうに頷いた。
「いい子。」
その二文字で。
レノの思考が止まる。
(……いい子。)
顔が熱い。
耳まで熱い。
「……?」
李灯は首を傾げる。
「暑い?」
「い、いえ!」
慌てて立ち上がる。
「失礼します!」
勢いよく敬礼して医務室を飛び出した。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、李灯は思わず吹き出した。
「ふふっ……。」
「市川くんって、本当に素直。」
⸻
廊下。
レノは壁にもたれ、小さく息を吐いた。
(……なんだ今の。)
『頑張ったね。』
『すごいね。』
『いい子。』
その言葉が頭の中をぐるぐる回る。
(褒められただけだ。)
(医療班長として言っただけだ。)
分かっている。
分かっているのに。
口元だけが少し緩んでしまう。
そこへ偶然通りかかった保科副隊長がその様子を見て、目を細めて笑う。
「市川。」
「は、はい!」
「なんやその顔。」
「え?」
「大型犬が撫でられた後みたいやで。」
「……?」
「尻尾あったら振っとるやろ。」
「そんなことありません。」
「ほんまか?」
「はい。」
「ほな明日も医務室行くん?」
レノは一瞬考えてから、真顔で答えた。
「……アドバイスをいただきに。」
「ぶはっ!」
保科は思わず吹き出す。
(これはあかん。)
(まだ恋やない。)
(せやけど市川、完全に懐いとる。)
心の中でそう笑いながら、「李灯ちゃんも天然やし、この二人は時間かかるやろなぁ」と、保科だけが少し先の未来を楽しみにするのでした。
「花、みたいな人ですかね」
歯が浮くようなありきたりな例えだった。案の定先輩は吹き出すように笑い、四ノ宮にはキモ、とドン引きされた。
だけど本当にそう思った。防衛隊に目指す人なんて実力主義、強さを求め続けプライドが高いやつばかり。そんな中で、一際雰囲気が違うと引き寄せられるように目に映ったのは彼女だった。入隊式の日から、保科副隊長の少し後ろでただ立っていた彼女。訓練中も度々姿を見せて、副隊長と少し話して訓練を見学して去っていく。いつも眉を少し下げて目を細めて笑う彼女に、なぜだかどこにいても目で追うようになっていた。
「でも確かに、俺も最初見た時は1人だけ雰囲気違うなとは思ってたわ」
「そりゃ立ち位置的にも医療班だし。まぁ芹沢さん自身が女神みたいだもんね〜。花に例えるとかほんとキザすぎ」
「うっせ!!」
彼女の存在感には先輩や四ノ宮も感じるところはあったらしい。四ノ宮に至っては試験中の治療についてから彼女にはよく懐いている。1番最初に関わったとマウントをとってくる始末だ。ちょっとうざい。それから伊春くんも。そもそも俺や先輩達が惹かれた存在の彼女に他の人も何も思わないわけない。保科副隊長も亜白隊長も彼女には強い信頼を置いているし、他部隊の隊員にもたくさんのファンがいるらしい。彼女はどこにいてもよく話しかけられていていつも笑顔で答えている。
俺も1週間健診で初めて話しただけ。いつも見るような優しい顔で。それを今は俺だけに話していた。
「応援してるよ」
少しだけ、ほんの少しだけその眉が不安そうに下がっていたけれど、彼女は綺麗な声で、顔で笑った。花が、そよ風に揺れてゆらゆら揺れるように。太陽に照らされて、光輝くように。
あぁ、花みたいだと。素直にそう思った。
「おいレノ!」
「伊春くん、すみません、いまから用事あるんで」
「あいつも懲りないねぇ」
訓練所の束の間の休息。合間を見つけては彼女の元へ向かう。
医務室。
「失礼します。」
「市川くん?」
「今日はどこも怪我してません。」
「え?」
「でも。」
少し姿勢を正す。
「体幹のチェックをお願いできますか。」
李灯は吹き出した。
「ふふっ。」
「怪我してなくても来ていいの?」
「……駄目ですか。」
しゅん。
耳まで垂れて見えそうなくらい肩を落とす。
「そんな顔しないの。」
李灯は笑いながら椅子を指差した。
「もちろん大歓迎。」
「ありがとうございます。」
その返事だけで少し嬉しそうになるレノ。
⸻
そんな日が続いた。
「今日は肩甲骨。」
「今日は握力。」
「今日は姿勢。」
「今日は走り方。」
李灯が助言する。
翌日には全部改善。
「……。」
「市川くん。」
「はい。」
「また直ってる。」
「ありがとうございます。」
「本当に吸収力すごいね。」
「……。」
「私、教えがいがあるなぁ。」
その言葉だけで。
レノの口元が少しだけ緩む。
⸻
それを毎日のように見ていた伊春がとうとう言う。
「おいレノ。」
「なんだ。」
「最近医務室行きすぎじゃね?」
「そうか?」
「そうだよ!」
カフカも笑う。
「毎日じゃねぇか。」
「身体の相談です。」
真顔だった。
「いやいや!」
「毎日相談ある!?」
「ある。」
「あります。」
「どっちだよ!」
伊春が頭を抱える。
「怪我してんの?」
「してません。」
「じゃあなんで。」
レノは少し考えて。
「……アドバイスを。」
「また?」
「杜鵑班長の分析は正確なので。」
「効率的です。」
「だから。」
「聞きに行ってます。」
「……。」
「……。」
伊春とカフカが顔を見合わせる。
「なぁ。」
「うん。」
「こいつ。」
「懐いてるな。」
「犬だな。」
「大型犬。」
「誰がです。」
真顔。
余計面白い。
⸻
さらにその日の午後。
「李灯さん!」
キコルが医務室へ駆け込んでくる。
「この前教えてもらった体重移動!」
「できるようになりました!」
「ほんと?」
「はい!」
「すごいね!」
頭を優しく撫でる李灯。
「頑張ったね。」
「えへへ……。」
嬉しそうなキコル。
それを医務室の外から見てしまうレノ。
「……。」
なんだろう。
胸が少しだけざわつく。
(……俺だけじゃない。)
当たり前だ。
杜鵑班長は医療班長なんだから。
みんなに優しい。
みんなを褒める。
分かっている。
なのに。
キコルが笑っているのを見て。
少しだけ。
本当に少しだけ。
「今日は俺の番じゃなかった。」
そんな考えが頭をよぎる。
すぐに首を振る。
(何考えてるんだ。)
(別に。)
(杜鵑班長は皆の班長だ。)
そう言い聞かせるのに。
医務室から聞こえる楽しそうな笑い声が、いつもより少しだけ気になってしまう。