知らないように、踏み込まないようにしていただけなのかもしれない。
私にとっては当たり前の日常。彼にとって当たり前の日常。同じ空の下にいるはずなのに、知らない世界が存在していること。
「ど、どうしたんですかその傷!」
「別に。指名手配中だった攘夷浪士の連中と殺り合っただけでさァ」
数日顔を見ないと思っていた沖田くんが、なんの前触れもなく再びふらりと現れたと思えば、数箇所にガーゼや包帯が巻かれていて明らかに傷だらけの姿。なのに当の本人は何も気にすることなくケロッとした顔で団子を頬張っている。
私が傷付いたわけでもないのに、心の奥がギュッと締め付けられて、苦しくて、どうしようもなくなった感情は、ツンとした鼻を超えて、目頭が熱くなってしまった。だけど何も言えなかった。踏み込めなかった。彼の姿とその態度にこれが日常っていうこと。私には遠い世界のようで、だから私は私の日常のまま笑っていつものように過ごすことしかできないと思った。
「無理はしないでくださいね」
それが精一杯の言葉だった。
彼から返答がなかったのは、団子を咀嚼していたからだと思う。
あの日から、沖田くんは団子屋に来なくなった。
最初は、たまたま非番が合わないだけだと思っていた。
真選組は忙しい人たちだし、今までがむしろ多かったくらいだ。
「今日は来ないね」
「そうですね。お仕事、立て込んでるのかもしれません」
そう答えながら、胸の奥がきゅっと縮むのを誤魔化していた。
三日。
四日。
暖簾が揺れるたびに顔を上げて、違うと分かるたびに視線を落とす。
団子を焼く手だけが、やけに慣れた動きをしていた。
「名前ちゃん」
お客が途切れた頃、ご夫人が心配そうに声をかけてくる。
「沖田くん来ないねぇ」
「……はい」
それ以上、言葉が続かなかった。
来なくなった理由を、私は何も知らない。
怪我をしたのかもしれない。
忙しいだけかもしれない。
――あるいは。
「……迷惑、だったのかな」
ふと、心に浮かんだ考えに、自分で自分を叱る。
そんなこと、言われたことは一度もない。
でも。
思い返すたび、胸がざわつく。
危ない仕事をしている人。
血の匂いと隣り合わせの世界。
私は、ただ団子を焼いて生きているだけの人間だ。
「……知らないんだ」
沖田くんの、本当の世界を。
夜、帳簿を片付けながら、ため息が零れた。
「私が近くにいたら、きっと……」
邪魔になる。足手まといになる。
そう思ってしまう自分が、情けない。
その数日後。
買い出しの帰り、偶然すれ違ったのは、見知った顔だった。
「……あ」
山崎さん。
「名前さん?」
「お久しぶりです」
軽く会釈を交わしたあと、どうしても気になって、口を開く。
「あの……沖田くん、最近お忙しいんでしょうか」
一瞬、山崎さんの表情が止まった。
「……あぁ」
「……?」
「いや、大丈夫です。もう動けますし」
それだけ言って、視線を逸らされた。
「……怪我、ですか?」
「ちょっとしたもんですよ」
その“ちょっと”が、どれほどのものか分からない。
でも、それ以上聞く資格が自分にない気がして、黙って頷いた。
「そう、ですか……」
帰り道、足取りが重くなる。
教えてくれなかった。知らせてくれなかった。
それが、答えのように思えてしまった。
数日後。
久しぶりに暖簾が揺れた。
「ちわーっす」
その声に、心臓が跳ねた。
「……沖田、くん」
いつも通りの顔。
いつも通りの声。
でも、左腕の動きが僅かに不自然で、着物の下に包帯の気配を感じ取ってしまう。
「団子、ありますかぃ」
「……はい」
差し出した皿を、彼は何事もなかったように受け取った。
「最近、来なかったですね」
「まぁ、ちょいと立て込んでまして」
目が、合わない。
「……お怪我、されたって」
「山崎が余計なことを」
軽く笑って、団子を一口。
「もう大丈夫でさァ」
――本当に?
喉まで出かけた言葉を、飲み込んだ。
「……そうですか」
それだけ言って、視線を落とす。
少しの沈黙。
「名前さん」
「はい」
「心配、かけやした?」
「……」
答えられなかった。
心配だった。寂しかった。
でも、それを言う立場じゃないと思ってしまった。
「……いえ」
そう答えた瞬間、沖田くんの指が、僅かに止まった。
「……そうですかぃ」
それ以上、何も言わなかった。
距離は、確かにそこにあった。
すぐ隣にあるのに、触れられない距離。
お互い、優しさで線を引いてしまった。
この時、私はまだ知らなかった。
この“遠慮”が、
彼を一番追い詰めていることを。