···▸レモン味じゃなくてもいいよ。


好きな人がいました。私の名前を紡ぐ優しい声が一等好きでした。


あなたの側で笑っていた日々は、確かに1人ではなかったのです。声も、笑顔も手の温もりも、私を映す優しい瞳も全部全部壊れないように抱き締める。幸せだった過去を振り返ると、もうそこから二度と動けなくなるような気がして。


でも、あなたの「特別」になりたいと言ってダメだった恋でした。

きっと、私はあの言葉は忘れない。あんなにもまっすぐで、私の心の柔らかいところまで刃を突き刺しておきながら、血も流れない私のための言葉を、他に知らない。
後悔が無いって言ったら嘘になるし、片想いが楽しかったって言われれば分からないけれど、出会わなければ何も無かった。傷付くことも涙することもないけれど、このあたたかくて愛おしい感情を知ることもなかった。


買い物に行ってふと香ったのはいつの頃の記憶。蘇る数年前のことだ。振り返ってもいるはずないのに。隣を歩いていると安心させてくれた香り。ただのスーパーに立ち寄って、軽い日用品とお気に入りだったグミをカゴに入れて他は特に居るものはなかったはずなのに。レジに行く前に目に映った柔軟剤。あれから全くといっていいほど忘れていたものだ。いや忘れていたはたぶん違う。私が思い出したくないから避けていたのかもしれない。これって確かセーターや毛糸の生地も洗える万能なやつだもんな。そろそろ寒くなるし。たまには違うやつも使ってみようか。手を伸ばせば触れたもうひとつの手。


「あ」
「あ」


脳裏に鮮明に蘇ったのは初めて彼と出会った時のこと。どうして再会したのもこんな場面なんだろう。でも瞳に映るのはあのころと変わって少し大人びた三ツ谷くん。彼もその垂れた目を見開いて私を見つめていた。


「あ…ごめん」


反射的に手を戻して顔を背けた。どんな顔をしていいか分からない。そもそも私休日でどこにも行くことなくそのまま買い物に来たからダル着だしお化粧も眉毛しか書いてないし、彼に会うならもっと可愛くしてきたらよかった。そんな事を思いながら彷徨う視線は違う柔軟剤を視界に入れてわたわたする私に吹き出したように隣から笑い声が聞こえた。


「三ツ谷くん…?」
「…いや、なんかお前、落ち着きなくて、おかしくて」


口元に手を当てて肩を震わせる彼の表情は先程とは違って何も変わっていない少年みたいな笑顔だった。まぁ、それもそうか。と呟いた跡、手に持っていた柔軟剤をそっと差し出す。


「ほら、やるよ」


これも一緒。初めて会った時と。
やめてほしい。もう終わったはずなのに。心臓の奥が何かに締め付けられたみたいに苦しくなる。この感情を私は知っているから。また舞い戻ってくるドキドキが尚更辛い。


「...ありがとう」
「おう」


飄々と話す三ツ谷くんは自分の分の柔軟剤も手にしてカゴに入れた。やっぱり、まだこれ使ってたんだ。私にとっては、どんな高級なものより価値のある彼の香り。そんな事を思うから、まだケジメが付けられて無いのかもしれないと自覚する。カゴには私と違って晩御飯になるであろう野菜や卵やお肉が入っていた。これを帰って彼が作るのか。相変わらず良い男のままでずるい。弱い私の心がゆらゆらと揺れているのを感じる。


「あー!」
「あー!」
「え?え、なに?」


突然の声といつの間に居たのか気付かなかった私のカゴを覗く女の子2人。するとものすごい速さで中に入っていた小袋を取り出される。お気に入りのレモン味のグミだ。


「これお兄ちゃんが買いたかったやつ!」
「おねえさんがとったの!」


お兄ちゃん?疑問に思っていると女の子2人は三ツ谷くんのそばに駆け寄ってそれを掲げる。それにしても私の記憶では三ツ谷くんがこれを食べていた記憶はあまりないのだけれど。


「三ツ谷くんってこれ好きだったっけ?」
「あぁ、まあ…」


ちょっとだけ部が悪そうに視線を逸らして頬を人差し指で搔く三ツ谷くん。彼は甘いものが好きだから私が隣で食べてきた時もレモン味のグミなんて酸っぱいって好まなかったのに。意外だな。味覚って変わるのかも。


「おめーら余計な事言うんじゃねーよ」
「なんでー?」
「これ最後の1つだったもん!」
「もう無かったの?」


さっき見た時はまだ数個あった気がしたけど。これってそんなに人気だったっけ。


「私も余分に2つ買ったしあげるよ」


そのまま笑って言えば、女の子2人はやったー!とぴょんぴょん跳ねて喜ぶ。可愛いな。日頃から三ツ谷くんがこの子達のことを想っているのも伝わるし、お兄ちゃんが大好きなのも伝わってくる。私には兄妹がいないからちょっとだけ羨ましい。


「え、いや、いいって」
「ううん。いいの。今度は私が譲る番」
「おにーちゃんよかったね!」
「いつも食べてたもん」
「え?いつも?」
「だから余計な事言うなって」


時間が経っていても軽口叩いている彼は昔の三ツ谷くんのままで。マイキーくん達とよくじゃれ合っていた光景が蘇ってとても懐かしい。


「じゃあ私先にレジ行くから」


またね。の言葉は出なかった。私が笑みを向けると三ツ谷くんは少しだけ眉を動かして、おう。とだけ返した。上手く笑えていただろうか。もう昔みたいに彼の前で私ではいれない。微かに震える唇を噛んでレジの定員さんにお会計を済ませた。すっかり日も落ちてきた帰り道。袋から取り出してお気に入りのグミを一つ口に運んだ。やっぱり酸っぱい。


「お前、ほんとそれ好きだよな」


大袈裟に心臓が跳ねた。休日の夕刻は人が少ない住宅街の路地。ゆっくりと振り返れば先程買い物した品はどこへやら手ぶらの両手をポケットに突っ込んで街灯の下に照らされていた。


「ルナとマナに行ってこいってさ。最近の女はガキでもませてんだよな」


さっきの妹さん達か。あの短い間に何を察したのだろうか分からないけれど変に気遣われたことに何も言葉が出なかった。
視線のやり場も困って顔が俯くと、それ、1個くんね?と言われて差し出す。やっぱ酸っぺぇわ。笑った三ツ谷くんは私の買い物袋を持って、送る。と歩き出す。されるがまま着いていくけれど会話があるわけではなかった。嬉しいのか嬉しくないのか分からない。


「お前さ、なんであの柔軟剤選んだんだ」
「え……なんでだろうね」
「俺は、ずっとこのグミ食ってた」
「三ツ谷くん甘い方が好きかと思ってた」
「初めてだよ。こういう味。忘れたくないから」
「え?」
「お前がずっと食べてたから」


不意に足が止まった。日が落ちると肌を撫でる風が冷たくて、だけどそんなことは気にならないくらい三ツ谷くんの言葉が私を独り占めした。


「今更だって思う。でも、俺はお前のこと1回も忘れたことなんてねぇ。初めて会った時からずっと好きだ」


あの時振られたのだって。何となく分かってた。ヒナちゃんも、エマちゃんも、みんなそういう世界に好きな男がいたら一定の距離感で生きると私はそれでずっと自分を納得させて庇護してた。自分が弱いから、彼女たちは真っ直ぐ強かった。どんなになってもずっと好きな気持ちを曲げることはなくて。知っていた。悲しみに浸かりきってもう立ち直れないふりをしてしまえたら、少女漫画の悲劇のヒロイン気取って涙を流してしまえたら、それが1番楽なんだって。ただ、自信が無くなるのも事実だったから。だからもう私は彼女たちとは違って関わることを一切やめた。



「またお前に会って、気持ちにケリがついた」
「.....」
「あの時は俺が弱くてお前を傷付けちまったけど、これからは絶対守るから。またそばにいてくれねぇか」


どうしてこんなにも弱い私をえらんでくれるんだろう。彼はやっぱり昔と変わらず優しくて、蓋をして心の奥底に閉じ込めていた気持ちが涙と共にとめどなく溢れ出す。


「その柔軟剤を買おうとしてたのは…期待、してもいいか」
「...私も、三ツ谷くんのこと忘れたことなんてないよ。昔から、今もずっと、...ずっと好きだよ」


不意に包まれた温もりからは昔と変わらない優しい匂いがした。あぁ、この香りが好き。少し硬い胸板が好き。抱き締められる強さが好き。

腕が解かれて向かい合うと親指で涙を拭われる。優しい瞳も全部全部あの時のまま。そっと重ねられた感触と共にレモンの味が広がった。


「やっぱり酸っぺぇや」


呟いて笑った三ツ谷くんは不思議と満足そうにしていた。


「次はレモン味じゃなくてもいいよ」
「いや、俺はこの味がいい」


指がそっと唇に触れる。再び歩き出す彼の隣の居心地は今までにない以上幸福だった。



レモン味じゃなくてもいいよ。
──最期の時まで一緒にいよう。



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