憧れの坂本さんは愛を知って変わった。
幸せってなんだ。坂本さんの家族を見てて俺はたまにふと考えることがあった。
カラン。
お店の拭き掃除をしていた時だ。入口に立っていた1人の女性。両手を握り、少し頬に赤みを差して視線を下に向けていた。殺し屋ではない。一目見て分かるほどの柔い雰囲気は拍子抜けする程の自分との縁のなさを感じた。
何か買いに来たような訳でもなく、新聞を読んでいた坂本さんも不思議そうに黙って見つめていた。
「ほら!」
すると女性の後ろから坂本さんの奥さんが顔を覗かせて、ぽんっと軽く背中を押す。
にこやかにグッと手を握りしめてガッツポーズをした彼女達に益々困った俺達は声をかけようと「あの〜…」と口を開いた時だった。
「……あの!」
同じ言葉なのに全く違うような声音で勢いのあるその言葉が俺の前に向けられていた。
「連絡先教えてください…!」
「……え?俺?」
拍子抜けとはこの事だ。なぜか俺に向けて彼女は頭を下げている。突然の言葉と行動に今まで修羅場も難関もくぐり抜けてきた俺だが全く反応が出来なかった。
「えっと、…どういうことっすかね、これ…」
「新手のハニートラップゆうやつカ?」
棚卸ししていたルーも不思議そうにカウンターまで出てきて状況を覗き込んでいた。
「あ、…いえ。貴方は覚えてないかもしれないんですが、以前危ないところを助けていただいて。その…お礼と言いますか…」
下げていた頭を上げたけれど相変わらずあまり目線は合わないまま、両手をずっと握りしめていて、けれどその顔はどんどん赤くなっている。
「よかったら、一緒にお食事に…行きませんか」
ついに目を瞑って振り絞った声で言葉を発した。
ルーの言っていたハニートラップ、なんてのも無さそうな、悪意のない、純粋な言葉。それはルーも感じたのだろうか。
「いいじゃん!ねぇシンくん!行ってきなよ!」
「ほんとにコイツでいいのカ?エスコートもできないボンクラヨ」
「お前は黙ってろ」
「大丈夫よ!すごい良い子だから!ね!あなた」
無口な坂本さんと少し頷いてくれて喜ぶ。
「じゃぁ、はい。これ俺の連絡先っす」
「ありがとうございます」
そこで初めて、顔を上げて、俺の目を見て微笑んだ彼女の表情が何だか花のように俺が見てた景色とは違う色付いた綺麗なものに見えた。
▽▽
連絡は数回。非番をもらって彼女が行きたいとこ言ったカフェで待ち合わせをした。
「すみません、待たせましたか」
「いえ。さっき来たところです。今日は時間をとってくれてありがとうございます」
「いいですよそんなの。さ、入りましょうか」
彼女は名前といった。たぶん俺より年上だろうか。大人びていて殺し屋の業界に入れば忘れてしまうような礼儀作法も丁寧で何故だか落ち着くような雰囲気を持っていた。
軽くランチメニューを注文して、彼女は届いたパスタをゆっくりと口に運ぶ。
食べながら口元を手で隠しながら笑って、話して、他愛ない会話にも彼女はずっと笑顔を絶やさなかった。
何がそんなに嬉しいんだろう。何がそんなに楽しいんだろう。ご飯が美味しいことか?それとも行きたかったお店に来れたこと?
分からなかった。自分にはずっと笑って過ごすことがなかったから。
ランチメニュー表にあったオススメのオムライスを頬張りながら、こっそりとラジオの周波数を合わせるように意識を集中させた。
彼女は知らない。俺が心を読めること。自分の能力のエスパーを使って何を考えているのか読み取ることにした。警戒を怠ってはいけない。もしかしたら何か企んでいるかも──
そんな、自分の疑う気持ちを恨んだ。
──シンくんと一緒にいられて、幸せだなぁ。
幸せ…?
幸せってなんだ?誰かと一緒にいられること?
俺と一緒にいて幸せ…?
「シンくん…?」
「……」
口に運んでいたスプーンが止まった。
それと同時に自分の気持ちが少しずつ動いていく。
「どうかした…?」
「……、」
心配そうに覗き込む彼女は先程とは変わって眉を下げていた。
自分のために、こんなにいろんな表情を浮かべて、俺だけを見てくれている。
「いや、…すみません。こんなの初めてで」
「…お、オムライスがですか…?」
「はは、それもありますね」
「…?」
不思議そうな顔から一転、またクスクスと笑った彼女に自分も嬉しくなった。
胸が温かい。ずっと一緒にいたいかも、なんて。
「すみません、乗せていただいて」
「いいっすよ。家どの辺ですか?」
「ここを左に曲がった川沿いです」
「了解っす」
他愛ない会話でもいい。隣で笑ってくれる人。自分のために心配してくれる人。
坂本さん、大切ってこういう些細なことなんですかね。
幸せって、こういう温かいものなんですかね。
「あの、もう少しだけドライブして帰りませんか」
「……!……はい!」
嬉しそうに笑った名前さんの表情に、俺も笑い返す。もう彼女にはエスパーは必要ない。だってこんなにも、幸せそうに笑ってくれるのだから。俺のこの感情も、確信に変わる日は近いのだから。