満員電車。


最近、気になる人がいる。
いつも眠たそうで、気だるげにパソコンとにらめっこしている観音坂さん。
髪はボサボサで目にはくっきりと隈があって、この人いつか倒れるんじゃないかってくらい心配になる人。
でも、上司に仕事を押し付けられても嫌そうだけど断らないところとか、任せられた仕事はきちんと責任を持ってこなすところとか。とても優しくて頑張っている人。

実は面と向かってはっきりと話したことなんてない。寧ろ私にはそんな勇気もない。ただ、気になるってだけ。ほんの些細な気持ちで、彼のことを目で追って、今日も頑張ってるな、頑張りすぎてるほどに、心配だなって誰にも気付かれない程度の気持ちを馳せているだけなのだ。

「お疲れ様です」
「…あ、…どうも」

1日に数回、お茶を出す私と彼の接点はこれだけで、会話もたったの一言。だからきっと本人も気付いていないだろうし、そもそも目も合わせない彼は私の事なんか名前も顔も知らないだろう。あぁ、今日も髪の毛が綺麗な赤色で、とてもふわふわそうだな。これ以上、進展なんてしないだろうし、声をかけて仲良くなるなんて何度も言うように、私には無理だ。だから今日も気付かれない心の中で、私はそう思っていた。



がたん、ごとん。と絵本に出てきそうなそのまんまの音を軽快に発する電車に揺られながら会社へと出勤する。

どれだけ早くても平日の朝となれば多い電車内で、今日は車内の中心へ人の並に押されてしまった。つり革もないこのど真ん中では、特に運動神経も良くないこの私は、体幹のみで数駅じっと耐えることがなかなかに困難なのである。ヒールも履いているし、ぐらぐら揺れる電車に、体が素直に言うことをきいてなすがままになってしまう。

あぁ、どうしよう。足も辛い。もう少し奥へ行けたら吊り革が持てるのに…。

人混みもあって簡単に動けそうもなくて、もはや頑張って耐えるしかないのか、と出社前に憂鬱になっていた時だった。

がたん、
電車が転倒するのかというほど大きく揺れて、不覚にも体が追いついていかなかった。遅れて何とか体制を立て直すが、背後に人とぶつかった感覚があって、慌てて振り向いて謝る。


「…すみません…!」
「…あ、…い、いえ…」


背の高さからして見上げてしまったけれど、目に映った赤いふわふわの髪に私の心臓はどくん、と跳ね上がった。

観音坂さんだ。
まさか同じ通勤電車だったなんて。今日も隈がひどいし、また昨日は遅くまで仕事してたんじゃないのかなんて、彼の顔を見て場違いなことを考えていると、じっと見過ぎたのか観音坂さんは戸惑うように目を泳がせている。
何か声をかけた方がいいのかな、なんて思っていると、観音坂さんは顔を背けてしまったので、タイミングを失ってしまった。

…そうだよね。そもそも私達は同じオフィスでも面と向かって話したことなんてないし、彼が私のことを知っているかどうかも分からないのに、ここで声をかけても知らなかったら気まずくなるだけだ。あぁ、こうして出勤前に会えて嬉しいのか、悲しいのか。また沈んでいく気持ちに拍車をかけるように車内が揺れた。どん、と再び観音坂さんにぶつかってしまって、…すみません…!と頭を下げる。
観音坂さんにすごい迷惑かけちゃってるな…。なんだこの女って思われてるはず。…恥ずかしすぎる。
はぁ、と深いため息を誰にも聞こえないくらい吐いた直後に、あの、と控えめな声が聞こえた。


「…も、持ちますか」


何が…?と思ったけれど、声の主の観音坂さんは、…吊り革、と自分がいる場所にちょうどある吊り革へ視線を向けた。


「…観音坂さんは…」
「…俺は、大丈夫なので」

さっきから、辛そうだったんで…と決して目を見ながらではないけれど、チラチラと何度か視線をあちらこちらへ向けながら気遣う観音坂さんに私は嬉しくなってしまった。
気付いててくれたんだ。優しいな。なんて。少し高めの位置だけれど腕を伸ばして吊り革を掴む。私よりとっても背の高い観音坂さんは、その吊り革が繋がっている鉄棒に掴まっていた。

並んでみると、観音坂さんはスラリとしていて、背もこんなに高くて、意外と男らしくて。心臓がドキドキしてしまった。なんだろうな。出勤前にいろいろと疲れた。


「あの、お疲れ様です」
「あ、…どうも」


あれからいつも目で追ってしまうのは仕方ないことだと思う。私はデスクとしてお茶を出すだけが観音坂さんとの唯一の関わりだ。彼はいつも、目も合わさずにペコりと頭を下げるだけ。私のことなんて覚えていないだろうし、まず私だと気付いてもいないかもしれないな。
でも、それでもいい。ほんの些細な関わりだけど、こうして毎日お茶を出していれば、いつかは目を合わせて、ありがとう、と言ってくれる日が来るかもしれない。気になって、もっと彼のことが知りたいと思うのは、日に日にお茶を出していっていつの間にか増していく気持ちだった。

今日も通勤時間に駅へ向かう。

朝の通勤、通学ラッシュの満員電車。人口密度の高い車内に耐えながら新宿の街並みをまだ寝起きの回らない頭をぼーっとさせながら眺めていた。揺れる電車に何度も何度もいろんな人にぶつかりながら、程なくして体の下半身、お尻に違和感を感じた。嫌でも勘づいた。いつまで経っても終わらない違和感に、これは俗に言う、痴漢、だと。周りの人達は知らない人ばかりで、怖くて、どうやって助けを求めたらいいのかも分からなくて、ただひたすら恐怖に怯えるしかなかった。何も抵抗しないと思われたのか次第に激しくなっていく誰かも分からない手。どうしよう。どうしたらいいんだろう。怖い。怖い。声を出そうにも、全身の力が入らなくて、それも叶わない。誰か。お願い。助けて。


「…あ、あ、あの、」

────次は、……駅ー、……駅

次の終点駅を知らせる機械的な声が車内に響くが、そのアナウンスは頭から綺麗に消えていき、控えめな、少し怯えたような声だけしか私の耳には届かなかった。数えるほどしか、いつもたった一言ほどにしか聞いたことないのに、どこか、私の心に落ちていく声。

扉の前、窓しか見ていなかった顔を振り向かせた。赤く、ふわふわしたくせっ毛が目に映った途端、視界がぼやけていく。

「なんだよ」
「…いや、あの…その、さ、…触って…ましたよね」
「は?何の話だよ」
「…いやあのすみません俺みたいなやつが偉そうに言える立場じゃないんですけど見たっていうかあの見えたって言うか、いやそもそもなんで俺なんだこういうのってもっと強くてかっこいい人の役割なんじゃないのか…俺みたいなザコ相手になるわけないし…てかこの人めちゃくちゃ睨んでくるんだけどすみませんほんとにすみません…」
「意味わかんねぇし。てか聞こえねぇんだけどおっさん」


私の後ろにいた男が睨みを効かせているのを感じて、私もゆっくりと振り向いた。観音坂さんは一人でぶつぶつと頭を抱えて小言を言っていたけれど、その両腕には仕事の鞄をぎゅっと握り締めていて。
あぁ、頑張ってくれたんだ。怯えているけれど、勇気を振り絞って立ち向かった彼に私は堪えていた涙がほろりと頬を伝った。


「…か、観音坂、さん…」


彼の長い前髪から見えた目が合ったその瞬間、いつもの気だるそうな瞳が大きく見開かれ、それは一瞬で身の毛もよだつような殺意を込めた鋭いものに変わり男を睨みつけた。


「…ぶっ殺す」


男の腕を掴んで、低く、低く言葉を発した。それは身の毛もよだつような殺意を秘めた一言。
いつも、いつも密かに見ていた観音坂さんだけど、こんな彼は初めて見た。
彼の手を振り払おうとした男だったけど、それも叶わないほど強い力で離さない。それには男も痛そうに顔を歪めていた。


電車は次の駅に止まり、私達はそのまま降りて観音坂さんが痴漢の男を駅員さんに突き出した。
それからはあまりよく覚えていない。彼に助けられてあの逃げ出せない恐怖から解放され安心したんだと思う。
話し込んでいて仕事には遅れ、会社には観音坂さんが伝えてくれた。上司は今日はゆっくり休めというお言葉に甘えたのだが、観音坂さんはあのぶっ殺す、という一言が車内にいた人達に誤解を生みいろいろと批判を受けた彼の誤解を解くのに大変だったことは覚えている。

でも、私の脳裏に浮かぶ彼の姿は、言葉は刺々しかったかもしれないけれど、ぎらりと光った目、とても、とてもカッコよくて、王子様のようだった。

同じ会社、同じオフィス。毎日当たり前のように見ている観音坂さん。この時のカッコイイ彼を知ってしまえば、もう、

気になる人から、好きな人に変わってしまうのは自分でも驚く程にあっという間だった。



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