奇跡の話。



私には最愛の妻がいました。
不器用でしたが感情豊かで心優しく時々頑固な女性でした。私はそんな彼女を好きになり、彼女も私を好いてくれました。
数年連れ添った後、彼女は流行病で若くして生涯に幕を下ろしました。生活に余裕もなく細々と2人で支え合い暮らしてきた私たちには満足な葬儀を行うことは叶いませんでしたが、何とか棺を買い教会で彼女の眠りが安らかであるようにと神へ祈りを捧げることだけは出来ました。

その、教会で彼女を入れた棺を前に神に祈りを捧げていた時の事でした。
ゾッと毛が逆立つような感覚が走ったと同時に淡い夜を纏うような人影が彼女の棺の上に降り立ちました。その感覚はほんの一瞬の物で途端に安らぎを感じるような気持ちになりました。
「神が私の願いを聞き届けてくれた」そう思い、あまりにも早い死を遂げた彼女へのせめてもの報いになったと目頭が熱くなりました。

呆然と夜の人を見つめていると、ふと目があったような気がしました。いいえ、あっていたのでしょう。夜の人が柔らかな笑みを浮かべたのにハッとし頭を下げて私は祈りと感謝を伝えました。

次に頭を上げた時にはそこには何もなく、ガラスに施された神の姿が映るばかりでした。
その姿はあの夜の人とは似ても似つかないものでしたが、私はあの時現れた夜の人が彼女の魂を天に引き上げてくれたのだと確信がありました。
棺に眠る彼女の顔が安らかなものに見えたからです。

あの日の出来事は忘れられないものです。
この話を書き記したりするのははじめてです。
勿論誰かに話をすることもなかった。
それは私の生きてきた中で1番の奇跡であり、特別なものだったからです。

そんな私が書き記そうと思ったのは、つい先日新たな奇跡と何にも変え難い特別な知らせを得ることができたからです。

彼女が亡くなってから50年、私も少しずつ身体が重くなり不自由さを感じる日々を過ごしています。
私はいつものようにパンを買いに家を出ました。
彼女が好きだったパンを朝食にするのが私の一日の始まりだからです。
その先で2人の青年と出会いました。
そのうちの1人を見て私はあの日の記憶を鮮明に思い描きました。
あの日目にした淡い夜を纏う人です。私は思わず声をかけてしまい何のご縁か食事を共にする事になりました。

突然声をかけた私に少し驚いた顔をされていましたが、すぐに優しい笑みを浮かべ言葉を返して下さり、その笑顔はあの日見た笑顔と重なりました。

彼は隣にいた若い男性に声をかけ、私の誘いに答える事にしたと告げました。
連れの方は会釈をしてさっと彼の後ろに隠れてしまいましたがとても静かな方でした。

パンを買うことも忘れ、行きつけの食事処へと足を向かわせました。
質素で安価なもので申し訳ないと告げれば、そんな事はないと私と妻がよく食べていた料理を美味しいと頂いてくださりました。

大変失礼なことかとは思いましたが、私は意を決してあの日のことを訪ねてみました。
夜の人は少し驚いた顔をしてすぐに、それは自分だと教えてくださいました。
そして、とても素晴らしい贈り物授けてくださったのです。

「彼女の魂は今、遠い国で自然と共に幸せに暮らしているよ。」

そう、告げてくださいました。
彼女の魂は神の元に行くことが出来たのだと、そして新たな生を授かったのだと。あの日の何の根拠もない確信は正しかったのだと教えてくださったのです。
私は思わず涙が流れ、ひたすらに感謝を述べました。

その後涙の止まらない私に気を遣ってか、食事の礼と労りの言葉をかけて別れを告げてくれました。
彼らが去った後、涙で視界が滲む私の前に出されたのは今日は3人分の食事のため口にすることはできないだろうと思っていた妻との思い出のある焼き菓子でした。

食事と素敵な愛の話の礼だと彼らが私に下さったものだと焼き菓子を運んできた女性が告げてくれました。若い男性の方から奥様の分もと2人分の焼き菓子が並べられました。

思わず席を立ち彼らの姿を探しましたがすでにその場から去ってしまっており、足腰も悪いこの身体では追いかけることは出来ませんでした。
彼らに届く事を願って深く祈りを捧げ妻との思い出に浸り、泣きながら食べました。妻の分は持ち帰り、妻の墓へ添えました。

私はこの奇跡を、あの日の奇跡を何かに記さなければと思い筆を取ったのです。
誰が読むのか、読まれるのかすらわからないけれど、居ても立っても居られない想いでこうしています。

あの日の奇跡と、新たな奇跡に感謝と祈りを捧げます。



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