「おや…マスターのお孫さんかな?」
今日はマスターが体調不良でお休みなので、代わりに私がカウンターに立っていたのだけれど、そんなときに来客のベルを鳴らしたのは、ちょび髭のダンディーなオジサマだった。慣れた動作でカウンター席へ移動すると、私の真ん前に座る。まじか。そこに座られるとプレッシャー以外の何物でもないんだけど。まだそんなにうまく珈琲を入れることができないため、マスターと仲良さげな常連さんに珈琲を淹れるのは少々というかすんごく忍びない。
「孫じゃないですよ〜アルバイトの依といいます」
「これは失礼。この喫茶店に若い女性がいるのは珍しくてね」
「たまには新しい風を入れないと、ってことで雇ってもらっています」
「そうか。では早速、ブレンドコーヒーをお願いしよう」
「まじか。私まだバリバリ新人なので、マスターの足元にも及びませんが頑張ります。あ、感想ははっきり申していただいて大丈夫ですので〜」
沸騰したお湯をドリップポットに移し替える。お店独自でブレンドした珈琲豆に、ゆっくりとお湯を注いだ。お湯を吸って珈琲が膨れた瞬間、ゆっくりと立ち上る香ばしい香り。それはお客さんにも届いたようで、いい香りだねと頬を緩めてくれた。じっくりと蒸らしてからお湯を注ぐこと数回、彼のための一杯が出来上がる。
「どうぞ」
「有難う」
白色に囲まれた透明感のある鳶色が人の口の中に入る瞬間が1番緊張する。ゆっくりとカップを傾けたその人は香りを楽しんだ後、そっとその舌の上に色の付いた液体を遊ばせた。喉仏が動く。一連の動作を見ている間、気づかないうちに息を止めていたようだ。彼がほっと息を漏らすのと同時に肩から力が抜けた。
「…ふむ。依さんはここは長いのかな?」
「いえ、まだ2ヶ月くらいです」
「…フフ。2ヶ月、か」
緩められた口元が意味するところは分からない。まだまだ精進あるのみと思われたのか、それとも単にマスターが淹れる珈琲との味比べをされたのか。何はともあれ、お口に合わなかったのであれば淹れ直すのがこの店の基本だ。勿論、お代は私持ち。マスターに言わせれば、客に不味いものを出す店はお店じゃないそうな。美味しいという言葉を引き出すまで淹れ続けろと怒られたこともある。破産したくなかったら、その値段で客が納得するものを提供できるようにならないといけない。全く厳しいマスターである。
「お口に合わなかったですかね…淹れなおしまーす」
「いいや、マスターのものと同じくらい美味しい珈琲だ」
「持ち上げなくて大丈夫ですよ〜まだまだ修行の身なので」
「おや、疑われるのは心外だな」
そう言って再び珈琲カップを手に取るその人と目があった。どうにも全てがお世辞というわけではなさそうだし、味に対してお客さんは嘘がつけない。美味しいものであるなら何度だって手が伸びるし、苦手だったり気に入らない時は悲しいかな、半分以上残したりする。再び手を伸ばしたということは、そういうこと何だろう。マスターには、怒られたばかりだったので、まさかのダンディなお客様から言葉に思わずへにゃりと顔が緩んだ。今、変顔してる自信がある。
「えへへ。初めて褒められました」
「マスターも職人だからね。こういったことには厳しいだろう」
「そうなんですよ!まだ2ヶ月なんだから大目に見てくれてもいいのになあ」
「可愛い子には旅をさせる、それがここのマスターだ」
「あら、よくご存知で。お客さんもここ長そうですもんね」
頷いたその人は、机に両肘を立てて寄りかかり、組んだ両手を口元に持ってきて、所謂ゲンドウポーズと呼ばれる姿勢になった。渋さも相まって様になってます、ご馳走様です。どうやら長居してくれるつもりらしい。
「ここのマスターとは古い知り合いでね。失敬、君の名前を聞いたのに名乗っていなかったね。黒羽盗一、それが私の名だ」
「あ、ご丁寧にどうも。ん…?黒羽さん…?え、あの有名なマジシャン?!」
「ハハハ。どうやら知っていたようだね」
軽快に笑った黒羽さん。知ってるも何も世界的に有名なマジシャンである。なんでこういうことをもっと早く教えてくれないんだ、マスターよ。テレビでしか見たことがない有名人が目の前にいるとか、ご褒美すぎる。
「ちょ、混乱して理解が…」
「ここへ来たのは、マスターに新しいマジックの感想でも聞こうと思ってね」
「え?たかだか珈琲店のマスターに?あの世界屈指のマジシャンが?カオスですね」
「おや、存外君は物を言う」
笑いが絶えない黒羽さんと、いまいち状況が飲み込めず頭を傾げるばかりの私。この状況も随分カオスである。そうして3杯ほど珈琲を飲んでくれた黒羽さんは、これから打ち合わせがあるからと席を立った。差し出された2枚の夏目さんを受け取ろうとしたらポンっと可愛い音がして、夏目さんが1輪の薔薇になってた。おおおお!生マジック!驚く私にウインクを噛ます黒羽さん、モノホンや。
「おおおお!どうやったんですか?!あ、でも飲み逃げは犯罪ですよ!」
「勿論支払いますよ。これは美味しい珈琲を淹れてくれた依さんへプレゼントだ」
お代はそこだよ、と指さされたのは私の名札。視線を下げれば人面魚に折られている夏目さんが2枚、仲良くぶら下がってた。すごい早業!マジックってすごい。本当は細かく折り目がついたお札は換金が面倒だから断りたいけど、マジックに免じて許すことにした。
「キザですね!有り難く頂戴します!」
「是非また美味しい珈琲をご馳走してほしい。今度は私の気に入りの豆でね」
「勿論です!勉強しておきます!」
ブンブンと折れるくらい手を振って天才マジシャンを見送る。因みに頂いたバラはフリーズドライしていたもので、時間が経っても枯れたり痛むことはなかった。そんなところまで天才マジシャンっぷりを発揮されて脱帽です。