イノセント・クロック

「最近、赤井さん見ないけど元気?」

諸伏さんが久しぶりに家に来たので、コーヒーを出しながらそんな言葉を口にした時だ。カップを持つ彼の手がピクリと震え、部屋の温度が下がったような気がした。心なしか私に話を振られた諸伏さんの表情は硬く、強張っている。それを見て、次に出てくるであろう言葉は簡単に予想できた。

「…黙っていて悪い。赤井は…」

苦々しい表情で、彼は死んだと告げられた。嫌な予感はしていたのだ。来葉峠で車の爆発があったというニュースを見た時から。赤井さんの愛車もシボレーだったし、そのシボレーは日本では珍しい車種だしそうそう走っていない。車内から男性の遺体が発見されたと聞いてからぱったりと赤井さんも諸伏さんも家に訪ねて来なくなったので、何かあるとは思っていた。

「…そっか」

それでもあまりに突然のことすぎて、理解するのに数分。言葉を口にするのに更に数分かかった。

依のコーヒーはいつ飲んでも美味いな、なんてしみじみしながらコップを傾ける諸伏さんもどこか寂しげだった。赤井さんの殉職は、いつも明るかった部屋に影を落とす。どちらからとも無く会話が止まり、部屋の中には時計の秒針が動く音しか聞こえなくなる。ふと思い立って席を立った私を、諸伏さんが不思議そうに見つめた。棚から赤井さんがよく使っていたショットグラスと置き忘れの煙草を取り出す。グラスにはバーボンを入れ、彼がよく座っていた場所に置いた。

「餞け。簡単だけど」

ライターある?と聞けば諸伏さんが無言で取り出し、火をつけてくれた。買って置いた灰皿に置くと、甘く苦い紫煙がゆったりと部屋に立ち上る。

「部屋で煙草を吸うなって言ってたのにな」

「今日は特別。諸伏さんも一本だけなら許してあげる」

じゃあお言葉に甘えて、と煙草を咥えた諸伏さんは手慣れた動作で火をつけた。彼らがこの部屋に集まることは、もうない。赤井さんが死んだ今、諸伏さんも新たに別の人からサポートを受けないといけないだろうし、何よりここに来る理由がないのだ。それを認識した瞬間、ぽっかりと穴が空いたような寂しさが訪れた。両親が死んだと聞かされた時以来の感情。一度亡くなった命は、もう戻ることがないという虚無感。

何だかんだ文句を言いつつも、私はどこか現実離れしたこの2人と過ごす時間が好きだったのだ。彼らとの他愛もないやり取りや掛け合いも好きだったし、2人がこの部屋に来ると必ず3人で食卓を囲む。その時の、1人では味わえない懐かしくも暖かい感触は、家族を亡くした私にとっては涙が出るくらい嬉しかった。けれどやはり長くは続かないのだ。

「…赤井が死んだことで俺も身の振りを再考する必要がある。今日来たのはそれを伝えるためだ」

「…」

「ごめんな…」

「なんで諸伏さんが謝るの?」

「いや…」

「大丈夫だよ…元に戻るだけだから」

ちょっと寂しいけどね、と天井を見ながらそう呟けば、諸伏さんが不思議そうな表情を浮かべて首をかしげた。多分聞こえなかったんだと思う。それか、散々迷惑がっていたのにどういう風の吹き回しだ、とでも思っているんだろう。確かに、2人は急に来るし好き勝手するしで色々大変だったけれど、1人に慣れてしまった私にとっては、人の温かさや家族を思い出す事ができる唯一の時間だったのだ。拠り所だったのかもしれない。だからいつも寒いベランダで缶コーヒーを灰皿にして煙草を吸う2人に、プレゼント的な意味で買ったのだけど無駄になってしまった。そんなことを言ったら調子に乗るから、一生言わない。まあ、空き缶を灰皿に使われるとリサイクルするときに大変だから、やめてほしいっていう理由もあったけど。

視線を戻して、未だに首を傾げている諸伏さんの目をしっかりと見つめる。恐らく、彼と会うのもこれが最後だろう。伝えるべき言葉は、案外するりと出てきた。

「さよならだね、諸伏さん」

彼のアイスグレーの瞳が、僅かに揺れたように見えた。

***

依の部屋を出た諸伏は、彼女の部屋があろう場所を見上げながら、懐から携帯を取り出し耳に当てる。彼女は最後まで涙や悲しげな顔を見せず、いつも通り振舞っていたがきっと強がりだろう。吐き出した息が白く浮かんで、消える。数コールの後、やや耳慣れない声がもしもしと電話を取った。

「俺だ。お前の言う通りに伝えたが、これで良かったのか疑問だよ」

「手間をかけました。貴方は当初の予定通り、伝えた場所へ行ってください」

「…お前のその喋り方と声は違和感しかねぇわー」

大袈裟に溜息を着けば、電話の向こうで何かのスイッチを切る音がした。一頻り笑った後で、際ほどとは打って変わったハスキーな声で話し出す。

「…自分でもそう思うさ。依は大丈夫そうか?」

その声は殉職したはずの赤井のものであり、死んだとされているわりにはどこか楽しげだ。たとえ捜査のためだとしても、はたまた彼女を巻き込まないための詭弁だとしても、偽りの訃報を神妙な顔で伝える側と聞かされる側の気持ちも察してほしいものである。諸伏は依の、色の無くなった表情を思い出しながら、これからの動きを確認した。

「お前にも依の顔見せたかったわ。あれ見たらマジで心が痛いからな」

「悪いことをしたとは思っているが…全てが解決したら話すさ」

困っている人を放って置けないお人好しの依は、人前では決して泣かない。冷たいわけでもなく、心が動かないわけでもないが、人前では何故か涙が出ないのだという。恐らく、早くに両親を亡くした彼女は、人に頼る事ができなかったのだろう。同情の中、弱みを見せまいと、彼女が彼女であるために自分で作り出した矜持なのかもしれない。

依が1人、暗い部屋の中で泣くことを分かっているのに、真実を伝えることも、慰めることもできない諸伏は、己の無力さを痛感しつつ、マンションを後にした。