「よっこいせ」
久しぶりに帰った自宅はなんだか湿っぽく、埃臭かった。当たり前か。1ヶ月近く帰ってないんだから。赤井さんの追悼旅行を兼ねて北海道へ足を伸ばして見たのはいいものの、スマホは水没させるし大雪のせいで空港で足止めを食らうし散々だった。本当は1週間の予定だったけど、トラブルに見舞われ当初の予定から大幅にずれ込んだのだ。でもそのおかげでおいしい牛乳を提供してくれる酪農家の方と知り合うことができたので良しとしよう。因みにここ2週間はその酪農家のお家でお世話になっていた。
「…萩原さんと松田さんが煩そうだなあ」
こちらに帰って来てからスマホを修理に出したので、当然3週間は誰とも連絡を取れないわけで。知らずに溜まってるメールや着信履歴を想像しうんざりする。何も言わずにお店閉めっぱなしだったし、色んな方向から文句の一つや二つ言われそうだ。もしかしたら今日これから偵察に来るかもしれないし、ずっと締め切ったお店も掃除した方がいいだろう。せめて数時間だけでもお店を開けようと、早速持って帰って来た生乳を持って店舗へと向かった。
「依ちゃんは俺たちにどれだけ心配かけたら気が済むのかなあ」
絶対零度の笑顔でそう言われて、ドリップポットを握る手には冷や汗。顔を上げられない。萩原さんは基本的に物腰も言葉も優しいけど、怒らせると怖いタイプの人である。コンコン、と指で机を叩くのは怒っている証拠であり、詳細を話せという無言の主張でもある。やだ怖い。
「久しぶりだね、萩原さん。取りあえず笑顔の温度を上げて欲しいかな」
お店の電気をつけた瞬間に駆け込んで来た萩原さんは、私の言葉を受けてもそのままの笑顔を浮かべるだけだ。本当に怖い。お正月の福袋よろしく、私がプレートをひっくり返す前に扉を開けるって何事。この人、どうしていつもタイミングよく、久しぶりに開けたお店に1番乗りで飛び込んで来るんだろう。お店が開いたことを知らせる変なセンサーが付いているのか、張り込みでもされているのか。何だか不思議な気分だ。
「1ヶ月連絡取れないって各方面から俺に問い合わせが来て大変だったんだよ…」
「それはごめんね。ちょっと北海道で酪農体験してた」
「は?!」
「最初は阿寒湖見て観光だけして帰るつもりだったんだけど、まさかの大雪で動けなくなっちゃって、その時偶々酪農家の人と仲良くなっててね」
「…」
「喫茶店やってるって言ったら、いいミルクがあるって言われて、酪農体験してた」
「…携帯は?」
「阿寒湖に池ぽちゃ」
「…」
「そんなに長くかかるとは思わなかったからこっちに帰って来てから修理にって思ってたんだよねー…一応シリカゲルと一緒にジップロックに入れてたんだけど復活しなかったの」
てへぺろっと笑うと盛大に溜息を吐かれた。失礼な。萩原さんはというと、こめかみを抑えて首を振っている。お手上げってことなんだろうか。心配してくれるのはきっと有難いことなんだろうけど、そういった経験というか、する側には結構立つけどされる側にはあんまり立ったことがないから、どう反応すべきか迷う。心臓を引っ掻かれるようなむず痒さもあって、そんな気持ちを誤魔化すようにコーヒーカップを整頓した。
「今度はちゃんと連絡すること!分かった?」
「はーい」
ぽんっと頭に手を置かれて諭される。うーん、なんていうか心配性のお兄ちゃんができたみたいだ。数年前、駅のホームで会った時の真純ちゃんもこんな気持ちだったのだろうか。次はちゃんと連絡するといえば嬉しそうに頷くし、珈琲飲んで行く?と聞くと勿論、といつもの穏やかな笑顔を返してくれた。
「お兄ちゃんは大変ですね」
「誰がお兄ちゃんだ」
「わーい!松田さんまで来てくれたんだー!嬉しいー!!」
「へえ?その割には棒読みなんだな」
頬を引きつらせた私と、やっと来たかと片手をあげる萩原さん。何だか机の下でぽちぽちやってると思ったら、松田さんに連絡とってたのね。そういえば2人で1人だったなあと遠い目をすると、頭の上に手が置かれる感触。本日2回目である。違うのはその強さだ。彼はググッと指に力を込めると、痛がる私を見下ろした。サングラスの向こうで、凍てついた瞳が爛々と光ってる。ミシミシ言ってるよ、これ!冗談抜きで痛い!これ絶対取れるよ、何かが!
「お前は」
「待って、松田さん待って!頭が割れたら珈琲淹れられなくなっちゃう!」
「あ、それは俺も勘弁。怪我させたら流石に洒落にならないから、程々にしとけよー」
「おう」
「え、止めてくれないの?!研二お兄ちゃん!」
「…松田、今回は勘弁してやって。俺もちゃんと怒ったからさ」
「…萩原ァ、絆されてんじゃねーぞ!」
全力の懇願は成功したらしい。私のお兄ちゃん発言にだらしなく頬を緩ませた萩原さんが間に入ってくれて、何とか頭は真っ二つに割れずに済んだ。それでもチクチク嫌味というかお小言が飛ぶわ、デコピンされるわで散々だ。因みに、松田さんには"お兄ちゃん攻撃"は通用せず、冷たい視線を向けられただけ。もう2度と、何も言わずに長期間店を閉めるの止めようと思った。