やさしい咀嚼

「最近よく来てくれますね」

「迷惑でしたか?」

「いいえ」

もはや定位置となった、カウンターの右端にその人は座っていた。私の問いかけに文字の海から顔を上げた沖矢さんは、その薄い唇にそっと笑みを乗せる。コナン君に紹介されてからというもの、お店が開いている日は必ず来てくれる。朝だったり昼だったり、時には夕方から閉店まで、私と話すわけでもなくずっと本を読んでいたりPCを触っていることもあった。大学院生ってそんなに暇なものだろうか。大学はいいのかと聞いたこともあったけど、今は試験期間中なのでと嘘とも本当とも取れない返事が返ってきたので、それ以上追求しないことにした。だってよくよく考えれば出席しなくて困るのは彼だし、その彼が気にするなと言っているのだから他人が気にしたところで真面目に通学するとは思えない。

「今日は何の本を読んでるんですか?

「闇男爵シリーズですよ」

「おお!」

「ご存知ですか?」

「勿論!私も好きなんですよ、闇男爵!推理小説で唯一、途中で飽きることなく読めます」

なんせ著者の工藤優作さんは、この店を贔屓にしてくれるお客様の一人だ。最近会っていないけど元気だろうか。それはさておき、今は沖矢さんとの闇男爵トークに集中せねば。中々同年代でこのseries好きに出会う機会は少ないため、ついつい言葉に熱が入ってしまう。読者を飽きさせない展開が好きですというと、沖矢さんは興味深そうに眼鏡を押し上げた。なんだその顔は。私が小説を読まない人間にでも見えたか。

「あまりこういったものは読まないかと」

「見た目ですか?見た目で判断したんですか?」

「いえ、そういうわけでは」

「まあ確かに小難しい話は好きじゃないですからね…でも優作さんのトリックは結構ハッとさせられることが多くて楽しいです。伏線も張り巡らされていますから、何回か読み返して伏線探すのが宝さがしみたいで、一粒で何度でも楽しめます」

「成程。様々なことが白日の下にさらされた後、もう一度読み返すことも推理小説の醍醐味ですからね」

「そう!それです!」

うんうんと聞いてくれる沖矢さん。私の拙い説明をちゃんと汲み取ってくれるところ、最高かよ。こういった話をする友達が少ない私としてはそれはもう嬉しくて、都合のいいことに今はお客さんも彼しかいないのでついつい余計なことまで話してしまう。

「実は優作さん、このお店の常連なんです」

「そうだったんですか。もしかして小説の中に出てくる喫茶店って…」

「お察しの通り、このお店をモデルにしてくれました!」

ぱちぱちと拍手してネタ晴らし。沖矢さんも一緒に拍手をしながら驚いてくれた。もう、聞き上手なんだから。サイン入りの闇男爵原本を見せるとさらに興味深そうに眺め、羨ましいです、と零していたので、有頂天となった私はもう一杯珈琲をサービスしてあげた。お巡りさん、現金な奴は私です。

「この喫茶店は隠れた名店だということですね」

「やだなあ、褒めても何も出ませんよ」

「有名人の方が来たら経営者としてそれを皮切りに幅広い客層を呼び込むものだと思うのですが、貴女はそういうことはされないんですね」

「あまり有名にもなりたくないですし、その人にとってここは喧騒からの逃げ場となっているのにそんなことできませんよ」

「…」

「お店を回せるだけの売り上げがあればいいんです。穴場だと知ってて来てくれる方も多いですし」

気に入った人が来てくれればいいんです、と締めれば、欲のない人ですね、と褒められた。あんまり働きたくないって言うのもあるんだけどね。一頻り話した後、夕方の忙しい時間帯がやって来る。名残惜しく思いつつ、沖矢さんに片手を振ってマスター業に戻った。オーダーの合間に彼の方を見ると、すでに視線は手元の本へと注がれている。変わり身早いなぁ。

そうしてだいぶ人の波も落ち着いてきた頃、本日分の豆も切れてきたため、そろそろお店を閉めることにした。いまだに小説を読みふけっている沖矢さんに一声かえると、もうそんな時間ですかと残念がられる。でもよく見てください、お外真っ暗なんです。何時間ここで過ごす気ですか?

「そういえば依さん」

「はい?」

「ここ最近、何か気になることは起きていませんか?」

「気になることですか?」

一体全体、どうしてそんなことを聞くのだろう。特に嫌がらせは受けていないし、防犯対策もそれなりにとってはいるためお店に関しては全然心配していない。気になることと言えば明日の天気と、ここ最近上昇している珈琲豆の卸売価格ぐらいだ。

「今は特に何も」

「そうですか。なら安心ですね」

「逆に何か気になることでもありました?」

「いえ、最近空き巣が多いと聞きまして。ここは夜、依さんしかいないので心配になっただけです」

「有難う御座います。一応防犯カメラも付けてるので大丈夫ですよ」

ほら、と指差した方に顔を向け成る程と納得していた。それでも何かあったら頼ってくださいねと、頼もしい言葉を貰い私も頷いた。でも大学院生って筋肉オタクじゃない限りそこまで身体を鍛えていないだろうし、失礼だとは思うけど沖矢さんも細身に見えるのであまり期待はしていない。そんなこと言わないけど。

「それじゃあ沖矢さんも帰宅の際は気を付けてくださいね」

「はい。依さんもあまり遅くならないように」

「はーい」

ゆったりとお店を出る彼の姿を見送って、私も店じまいの準備を始めた。