さて、そろそろ満足したかね

ちらりと見上げた時計は丁度9時を指している。世界が闇に包まれてからもうだいぶ時間が経っていた。道行く人の姿も疎らだ。いるのはふらふら道を蛇行する酔っ払いくらい。電球色の間接照明に照らされた店内は、がらんととしていてやけに寂しげだ。彼がくるのはいつも9時少し前。いつだってその時間に遅れたことはない。ということはやっぱり今日は来ないのだろう。

「よし、閉めるか」

待ち人が来ないのにお店を開けておく必要はないので、さっさと店じまいを始める。プレートはcloseが表になるようにひっくり返し、お店の扉に念入りに鍵をかけた。こんなことなら先に売り上げを数えておくんだったなあ。機械の電源も落とし、ちまちまと売り上げと明日の両替分を計算していると、ガタガタガタと乱暴に何かを引く音が聞こえた。幽霊にしては自己主張しすぎだな、おい。耳を澄まして店内を見回すけれど、その頃にはピタリと音が止んでいた。余計に怖い。ザッと視線を飛ばしたけど何もなかったので、視線を手元に戻したのだが。

「いるなら開けておけ」

「んん?!ギンさん?!」

どかりといつもの席に座ったのは、今日はもうお見えにならないかと思っていたギンさんだった。いつも通り不機嫌そうな彼は、チラッと私に視線を投げたあと、無言を貫く。はい、いつものやつですね、合点承知。機械の電源を入れ直したところでふと気付いた。あれ、私さっき扉の鍵閉めたよね?

「…ギンさん、1つ聞いていい?」

「…何だ」

「多分大丈夫。扉に鍵かかってたはずなんだけどさ、どうやって入ったのかなあと思って…」

「…」

「…」

「……鍵なんてかかってなかったが」

「いやいや、明らかに嘘やん。めっちゃ間が空いてるよ?!」

パッと出入り口の扉を見る。明らかに取っ手があるべき方向じゃない方に曲がってるんだけど。え、何、こじ開けたの?その姿に見合わずギンさんってば怪力なの?まあ確かにね、それなりに背は高いけど分厚いコートからじゃ肉体までは見えないじゃん?それにほら、顔立ちとか髪色から若干儚い感じも見られるのに、まさかの横綱級の怪力だったとか泣く。

「まじかー」

「…」

「開けておかないお前が悪いって目で見ないでほしいな!確かに閉めちゃって悪かったけれども!」

「どっかの誰かが俺に無駄足踏ませようとしたんでなァ」

「うわぁい!はい、カロシおまちどーん!」

ニヤリと笑うその顔に寒気を覚えて、ギンさんのお気に入りであるカロシ・トラジャをちょっと乱暴に置いてみた。そうして今日初めてまともに彼の顔を見たんだけど、綺麗なお顔の丁度右頬にこの前までなかった傷を見つけた。怪我してからそれなりに時間が経っているのか、傷口についた血は乾いているけれど結構深く抉れてるように見えるのは気のせいだろうか。

「ギンさん、頬っぺた怪我した?」

「…フン」

「痛い?」

「さぁなァ」

キンさんは怪我したところを気にするでもなく、やや不機嫌のまま珈琲を飲み始めた。どうやら消毒をする気すらないみたい。小さい傷でもばい菌が入ったら大変なのに。まあ、人の好意を素直に受け取る人じゃないことくらい分かっているので、せめてもの心遣いということで珈琲請けに絆創膏を添えた。目立ちにくく水にも強い、私のお気に入りの逸品である。ここは強面であるギンさんに知腰でも愛着がわくようにと、ポップな柄の物を置いてみた。

「…何だこれは」

「さりげない気遣い、プライスレス」

「ふざけてんのか?」

「滅相もない!」