ピンクなんてどうですかね


驚きのあまり動けなくなったオレの目の前で、
その物体だけがゴロゴロと野菜室の中を転がっていた。


まだ心もとなかった視界が一気に覚醒するのと同時に、昨夜の自分が小動物でも入れてしまったのかと一瞬嫌な汗が背筋を流れた。
犯罪にそめた(かもしれない)手を恐る恐る伸ばして、黒くて、丸くて、拳1つ分くらいの大きさのナニカを拾い上げてみる。


「…マジか」


よく見ればただの腐ったトマトだった。
食欲も失せるほど色味が悪い、掌の上のトマト。
某国民的アニメ映画を思わせる可愛らしい語感だが、あの赤い人面魚とは比べものにならない程汚い色をしている。数日前に買った時の、真っ赤に熟れていた面影はもうどこにも残っていなかった。

しかし妙である。
もはや自分が持つ唯一の正装服であった東京卍會の特攻服を、訳あってクローゼットの奥底にしまった昨夜​───たしかにトマトは赤かった。
間違いない。明日の朝、これを食べようと確認して眠りについたのだから。


灰緑色にそまったトマトを片手で持ち上げたままぼんやり観察する。
怖いもの見たさで、すん、と嗅いだそれは、まだ本来の匂いを留めていたけれど。いかんせん、食あたりでもしたら午後の予定に響くから止めておいた。ここまで腐られたらいっそ清々しくゴミ箱へ投げ捨てられるから、逆に助かる。
今日は隊長…武藤さんと、横浜に行く日。つまるところ天竺の隊員として初めて集会に顔を出す日なので、何かあったら色々な意味で笑えない。

「…ちくわ食うか」


右足で野菜室の扉を締めながら、冷蔵室をあける。
目の前にあったちくわを二本ほど取って、食パン感覚で口に咥えた。
予定では武藤さんが家まで迎えに来てくれるらしい。発注したオレ用の天竺の特攻服を持って。


……とはいえ、武藤さんにわざわざ家のインターホンを押させるわけにもいかないオレは、早々に服以外の全ての準備を終わらせて、外で到着を待つ必要があった。

ちくわを咥えたままソワソワしながら、家中を移動して身支度を整える。
歯磨きを終え、もうすっかりトレードマークと化した黒マスクで傷痕を隠す。
鏡に映る痛々しい目つきの自分を一瞥。
それから一つ、微笑みの練習。
よし、どこからどう見てもこれは笑顔だ……とかいう、今じゃルーティンになった自傷行為を終えたあと、外に出てその瞬間を待つ。


数分もしないうちに、武藤さんは来た。
ハザードランプを押した武藤さんが、助手席にある紙袋を掴んで、そのまま車を降りてくる。


「おはようございます、隊長」
「ああ」


そう言った後に、「あ、もう隊長じゃねえわ」と気付いた。が、武藤さんは気にしないといった様子で、手に持っていた紙袋をオレに差し出す。

「特服だ。着替えてこい」

短く返事をして紙袋を受けとる。
チラりと顔をのぞかせた出来たての特攻服と目が合って、なにか一言感想を言った方がいいのかもしれないという変な気の回しが働いてしまう。……よし。


「オリーブドラブですか。軍隊みたいでカッケェ色ですね」


言わずもがな大嘘である。
今どきこんなジジ臭い色をチームカラーにするなんてセンスどうなってやがる、と黒い腹の底では唾を吐いた。
もちろん、先程練習したありったけの真っ白な笑顔の下で。

…だが。


「…オリーブドラブ?何言ってんだ」


武藤さんは持ち前の仏頂面を困惑させながらオレを見やった。
オリーブドラブが伝わらない?
ジェネレーションギャップ?
三つしか変わんねえのに?
困惑したいのはコッチだよ…と視線を上げた先で、武藤さんが若干引き気味に言った。


「どう見ても赤色だろ」


そこでぱっと出そうになったのは「あんたこそ何言ってんだ」って言葉。
疲れてるよ、あんた。病院に行った方がいい、頭の方の。
だってどう見たってこれは汚い緑色で、それこそ今さっき捨てたあのトマトみたいな…トマトみたいな。

「っ、あ、あのちょっと待ってて下さい」
「?ああ。早くしろよ」

脳裏をよぎった、ある1つの最悪な可能性。
それを確かめるために慌てて家に駆け戻って、靴をようやく脱ぎ捨てて、たどり着いたのは台所。
一息付く間はなく、覚悟をする暇もないまま、朝捨てたトマトを拾い上げて武藤さんの所に戻る。


「これっ…!何色ですか、!!」


マスク越しの呼吸が苦しい。けたたましく鳴る心臓の音が聴覚を支配する。そんな喧騒の中でも武藤さんの静かな声は、皮肉にもよく聞こえたのだ。



「赤だろ。…大丈夫か?三途」


あまりの衝撃に、世界から色が失われたようだった…のは、あながち比喩なんかじゃないのだと思い知る。


このトマトは腐ってなんかない。
天竺の特服はオリーブドラブなんかじゃない。


ああ、そうか。


「…大丈夫、じゃ…ない、です」


オレ、赤色が見えなくなってんだわ。





⿴ ⿻ ⿸



「色覚異常?」
「はい。赤色が見えにくくなってるらしいです…いただきます」


割り箸をわって、ラーメンを豪快にすする。
天竺の集会がおわったあと、一人で病院に行ったせいで食べ損ねた遅めの昼食を、武藤さんと食べているところである。

医者の診断は色覚異常。
武藤さんには言わなかったけど心因性によるものらしい。心当たりならある。というか目の前に在る。


「…原因は?治療法はあるのか?」

お前だよデカブツ、とは辛うじて言わなかった。
喉元までわいた言葉をスープで流し込む。
頬にふれた髪を耳にかけ直しながら、何ともないと言った様子で答えた。


「分かりません。一時的なものらしいんで、自然と治るんじゃないですかね。てか隊長、ラーメン伸びちゃいますよ」
「…悠長すぎねぇか、お前。治るまでの間どうやって過ごすつもりだ」
「そうですね、」

ずるずるとラーメンをすするオレの隣で、事をズルズル引きずる武藤さんは、とんこつラーメンよりずっとしつこい。
隣のカウンター席に目を流せば、ジトりと重ったるい目ん玉が二つ、オレを見ていた。


「見えないわけでは無いんです。飯もコンビニとかスーパーの惣菜を買えば安心だし、特に困ることはありません」
「そう、か」

歯切れの悪い返事をよこした武藤さんは、少しの間オレの横顔を見て、それからは同じようにラーメンに手を付け始めた。一口で3分の1くらい食ってた。

二人並んでラーメンを啜った。
カウンターに置いてある唐辛子も、ラーメンの丼も、店の暖簾も、全部が全部黒っぽく見える世界で。
黙ってラーメンを啜った。
この人と見てた世界は、存外赤色に溢れてたんだなあ、とか。
しんみりした思いで巡らせる走馬灯のような回想は、ラーメンと抗争が八割を占めている。
血の気がおおい日々から、赤色が消えていく。
武藤さんが日々であり原因でもある。
なんとまあ、皮肉な話だ。


「…明日からもオレが迎えに行く。お前は極力家を出るな」
「いえ、そういう訳には…。せめてオレが運転します」
「アホかテメェは。見えねえのに車運転できるわけねぇだろ。オレを殺す気か」
「フフ」
「何笑ってんだ」
「安心してください、隊長。今の信号機は色覚異常の人にも区別がつくよう作られてるらしいので、オレでも運転くらいなら出来ますよ」


医者から聞いたことをそのまま口にする。
昨今、よく耳にするユニバーサルデザインが信号機にまで用いられているのは、色覚異常にならなければ一生気付けないことであった。


「赤色が認識できなくなって、逆に見えるようになったモノもあります。治るまではソレを見付けることにします」


原因と解決方法がわかっているオレと違って、何も知らない武藤さんはやはりオレの呑気さを理解できないといった顔をしていた。当然と言われればそうである。
その思慮深さを、もっと前に発揮してくれてたら、オレの世界から赤色が消えることなんてなかったのに。
ありがた迷惑ってこういう事をいうんだ。
生まれて十五年目の冬にしてようやく理解した。


「…オレのこと心配してくれるんですね」
「…その言い方やめろ」
「フフ、すみません」


それでも、ありがた迷惑だと信じて疑わなくても、込み上がる笑みは思ったよりずっと暖かくて悪くなかった。
コイツの頬は今ほんのり紅く染まってたりすんのかなあ、とか考えたりする。見えないけど。見えなくても別にいいんだけど。


「…オレも隊長のこと心配です」
「お前に心配されるようなことは何もねぇぞ」
「隊長は時々無茶ばかりするから」

オレが言えることじゃないかもだけど、とふと冷静になる。事実、武藤さんも心底「お前に言われても」って顔をしてオレを見た。


「今、実は隊長が腹を切られてて服が血だらけになってたとしても、オレは気付けません」
「血だらけでラーメン食ってたまるか」
「例え話です」
「例えが突飛すぎんだろ」
「有り得ない話じゃありません。ていうか大事なのはそこじゃなくて」
「あ?」
「だから、…もし隊長が大怪我しても今のオレじゃ、ソレに気付けないので、」


気付けないからなんだよ。
むしろ好都合だろ、苦しめ、死なない程度に。
心の中にいるもう一人の自分みたいなものがそう囁いた、その後で。



「怪我、しないでくださいね」





その言葉に、武藤さんは眠そうな目を一瞬見開いて驚いた。
「そんなヘマしねぇよ」と握った拳でコツンと頭を突かれる。痛みが伴わない優しい拳骨だった。
いて、と嘘を呟く。未だ熱が残る頭部をさすった。


頼むから、この先はもうそんな恩愛を注がないで欲しい。
報復する気持ちは決して揺らぐことは無いのに、彼と接する度になるべく怪我をしないでほしいという矛盾が胸の中で膨れ上がっていく。
今のだって、ただ欺く為の呪文の言葉にすぎなかったのに。
何だか本心を言ってしまったみたいで、そしてソレが、恋人の無事をおもう乙女の祈りによく似てて、オレは無性に居た堪れなくなった。
武藤さんは、なんてヒドい人なんだろう。


「とにかく、気を付けてくださいね。オレは今武藤さん以上に鈍感で変化に気付きにくいニブ男なんですから」
「…?おい、オレ以上ってどー言う意味だ」
「そういうとこです」
「あ?」
「武藤さんが明日髪の毛を赤色に染めててもオレには灰緑に見えます。マニキュア塗っても、口紅塗っても、オレは泥ついてんのかな位にしか思えません」
「お前の中でオレは髪を赤色にしてマニキュアぬって口紅塗るような男なのか」
「はい」


面倒くさいので、もう肯定しておく。
全くイメージと違うけど、無理くり想像してみるとかなり面白いニューハーフが出来上がった。
フッと思わず笑ってしまう。

「どうした?」
「隊長似合いそうですね、ニューハーフ」
「…テメェ」
「冗談です」

白々しくラーメンに意識を戻して、スープをすする。
オレより遅くに食べ始めた隊長の器はもう空っぽだった。


「…まぁ、爪くらいなら塗ってやる」
「えっ、」
「勘違いすんな、オレにそっちの気は全くねェぞ」


脳内で描かれたムトウ・ニューハーフ・ヤスヒロがあまりに現実的だから、つい本当に実現してしまうのかと驚いた。
これ以上、理想の兄貴としても漢としても、彼に憧れた自分を諸々裏切らないでほしかったので、助かったと言えば助かった。少し、ほんの少し残念ではあるが。


「願掛けみたいなもんだ」
「願掛け…」
「お前の目が早く良くなるようにな」


そう言って真白く微笑まれたオレは、空になった器から手を離し、ペーパーナプキンで口元を拭った。
オレの完治までの時間と、あなたの残りの寿命は反比例で動いてるんですよ、とは言えなかった。
置いてあったマスクを再びつけた後、静かに武藤さんの方を見やる。

「…じゃあ、はやく治さないとですね」

朝方練習したあの笑顔をうかべて、オレはそう言ったのだ。







青天の下、碧海の上。
白いコンクリートを汚す、紅一点。
あの日失った赤色が、今日、ようやくオレの世界に帰ってきた。


「…おかえりなさい」


傷口からドクドクと溢れ、流れ出てくる血液をみて最初に出てきた言葉がそれだった。
うつ伏せたまま動かない武藤さんは、数十分前に少年院でのお務めを終えたばかりだった。
今は人生のお務めを終えようとしている最中である。

血の海が次第に広がっていく。
武藤さんの手は爪どころか手の平まで血に浸かっていて、真っ赤だった。
飛び散った血がついたのか、口もリップを塗ったように赤い。髪もまばらだけど赤い。

「…隊長、似合ってますよ。とても綺麗な赤色です」

仏頂面の男が、いよいよ本当に仏になろうとしている。
まだ死んではいないが、とっくに意識は失われている。
聞こえやしないと分かっているのに、さっきから言葉が溢れて止まらないのだ。
このまま広がっていく血の海を放っておけばおくほど、後片付けが大変になるが、どうしてか身体は動かなかった。

潮風が身体に当たる。
それに連れ去られるようにして、武藤さんはとうとう息を引き取った。
なびく前髪の毛先に、目を突き刺すほど鮮烈な赤色が付いていた。

返り血。
武藤さんの血。
白髪を汚す、紅一点の血。
居場所をなくした男が縋り付くように最後に残した、自分の存在証明のように思えた。


「…大丈夫ですよ、隊長」


お前は裏切り者だった。
死んで当然のやつだった。
だけど、あなたには借りがある。居場所をくれた恩がある。

お前が実の両親に愛されなくても、
仲間に恵まれなかったとしても、
更生の余地がない手遅れな怪物だと世間に見放されても
死んで全てを無かったことにしたいと悔やんでも




オレがお前を、忘れてあげない。





「…ねえ隊長。オレ、髪染めようと思うんです。赤色が帰ってきた今、心機一転、殺人犯これからの人生を歩むために。…ここ最近ずっと何色にしようかなあって悩んでて。…それが今決まりました。ねえ隊長?俺の地毛の白髪と、隊長が遺したこの赤色をたして​、



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