え、そんな顔できたんですか。
目の前の男が初めて見せた何とも間抜けた表情に、面白さと嬉しさが込み上げてきて、ついそう言いそうになった。マスクの布地に隠れて口端が上がったのが自分でも分かる。下手に目をそらさないよう、かつマスクから笑みが溢れないように繕うのはなかなか大変な事だった。
らしくないコトを言った自覚は十分すぎるくらいにあった。が、まさかそこまで驚かれるとは想像していなかった。
「心理テストか何かか?」
「いえ、さっきマイキー達が話してて。気になったので。隊長は、」
世界最期の日って、何食べたいですか。
教室の片隅でされるような、そんな意味も他愛ないもない話。聞いたのはほんの少しの好奇心からで、集会までの時間つぶしとして、何気なく持ち出した話題だった。
「…そうだな」
鍛えられた太い腕を組み、武骨な指を顎先に添えて武藤はうつむく。同じ質問に対し、「オレ、お子様ランチとたい焼き!」と即答した総長の笑顔と、目の前の無愛想な男の顔を脳裏で交互に照らし合わせ、「まあ随分キャラが違うもんだなあ」とぼんやり思いながら、大人しく回答を待てば、
「……」
「…?」
おもむろに上げられた視線が、空中でかち合う。心地よい沈黙の中で、息をする様にぱちぱちと数回瞬きをすると、武藤の仏頂面がほんの少し緩んだ…気がした。
「ラーメンでも食いに行くか」
「え、オレも、…ですか?」
「嫌か?」
気怠げな瞳はいつもと変わらないが、その上の雄らしい太眉は、これ以上にないほど頼りなく垂れていた。そんなチワワみたいな、愛らしい顔もできたんですか。今日二度目の新しい発見に、心の中で静かにクラッカーが鳴らされるような、そんな浮ついた気持ちになる。
「いえ、ご一緒させてください。隊長」
鏡合わせに武藤も笑った。世界最期の日に食べる飯がいつものラーメンなんて、せっかくの非日常も台無しである。
そう嘆くほど彼らは趣ある人間ではなかったけれど。きっとこの思い出を忘れないくらいには、何気ない日常を大切にする人間だった。
少なくとも、三途春千夜にとっては。
⿴ ⿻ ⿸
日は巡り、武藤がいない空白の日常を背負って、三途が再び彼を訪れたのは秋の入口のことである。
自分はあの日、かつてのように振舞えていただろうか。三途の問に答えをくれる者は、もういない。否、必要もないことである。
「隊長!」
そう声をかけられて振り返った男の顔は、相変わらずの仏頂面であった。一見して感情が読み取りにくいその表情も、逞しい身体つきも、あの頃と何一つ変わらない。
「お務めご苦労様です」
「…三途」
しかし半年ぶりに聞いた声は、記憶の中のものよりずっと低い。元からこんな顔だったはずなのに、骨の髄までエグるような鋭い目つきに息が詰まる。待ち焦がれていた再会であるはずなのに、こうも心中穏やかでないのは、身体の後ろで組んだ腕の中の禍々しい殺意が見破られたからではないか。それが杞憂であるとは思うものの、背中にはじんわりと冷汗がにじんで仕方がない。
「車、出しますよ」
「ああ」
「どうぞ。乗ってください」
まだ誰も乗せたことのない助手席のドアを開けて、乗車をうながす。大きな体をたたむようにしてシートへ腰を下ろした男の逃げ道を塞ぎ、自分も反対側のドアから中へと入る。
「隊長、昼、食べましたか?」
シートベルトを締めながら、そう何気なく聞けば、武藤は自分が空腹であることに今気づきましたと言わんばかりの表情で「いや、」と呟いた。
「三途はもう食ったのか?」
「いえ、まだです。…朝はあまり食欲がわかなくて。よければ今から、どうですか?」
「そうだな。何か食いたいものあるか?」
「そう…ですね」
それまで平坦に脈打っていた心臓が、突如一気に跳ね上がる。五臓六腑が圧迫され、空っぽの胃が潰されるような感覚にハンドルを握っていた手が僅かに震えた。
「…隊長がよければ、」
「ん?」
「ラーメンでも、行きませんか」
震え 殺意 期待
その全てを殺した声に、二つ返事した武藤の顔は確かに笑っていた。
アクセルを踏み込む。無意識にハンドルに爪が食いこんだ。
猛る心臓はまだ、落ち着きを取り戻せずにいるままであった。
流れる景色をぼんやり見つめていた武藤は、時折何かを思い出したかのように、ただ黙って運転席に座る三途を見やった。生ぬるい沈黙の中、にぶい視線を受け止めていた左の頬に自分よりずっと高い温度が触れたのは、たしか三度見程された時のことである。
「まだ使ってたのか」
これ、と言って武藤が触れたのは、あの日───二人で将棋を指した日にもらった、黒いマスであった。
口元の傷を愛せなかった武藤の、真っ白な善意にもらった、真っ黒のマスクだった。
「はい。隊長がくれたものですから」
「懐かしいな」
「…覚えてたんですね」
「まあな」
そうですか、と答えた自分の声は、どんな色をしていただろう。赤信号で止まった交差点にぐるぐると渦巻く陽炎に目眩がして、あまりよく覚えていない。
ナビを見るフリしながら下調べしていた道を走り、はなから決めていたラーメン屋に、さぞ今見つけたかのように辿り着いて、二人は暖簾をくぐった。ふわりと鼻をくすぐった匂いにつられて、厨房近くのカウンターに腰を下ろす。が、正直何かを食べる気分には到底程遠い心持ちだった。
「三途」
「え?」
「注文、お前の分の」
メニュー表なんて開いていただけで、中身なんて見ていなければ、食べたいものも特にない。「オレも同じので」なんて言ったことを、数分後届いた超デカ盛りのチャーシュー麵を見て、三途はひどく後悔した。
「食えるのか?お前」
「…食べます」
「そうか、随分食うようになったんだな」
兄貴気取りの恩愛の声が、体中の穴と言う穴から体内に入り込んで、鉛のように全身に詰まった。
空気の抜け道を失って声も出ず、麺を啜ることもできない三途の横で、美味そうにラーメンを食べていた武藤が耳を疑うような言葉をかけたのは、丁度この時だった。
「無理はするなよ、三途」
「…え」
「長い間運転してたからな。疲れてるんだろ?ゆっくりでいい」
顔をあげた目と鼻の先で出会った、無神経な顔に絶句した。
オレの居場所はここだと信じて疑わない、平和ボケした思考回路。
自分がした裏切りなど鑑別所に置いてきたと言わんばかりに、罪悪感の欠けらも無い言動。
失望。その一言につきた。
そして次の瞬間、後ろ髪を柔く引いていた何かが手を離し、そのままトンと自身の背中が押されるのを感じ取ったのである。
「食わないのか?」
「…いえ。いただきます」
握っていたままの箸で、麵を啜った。数分前のことが嘘みたいに、簡単に喉を通って胃に落ちた。呑み込んだのは麺だけじゃない。まだ僅かに残っていた、武藤への情と自分を繋ぐ鎖が、何の未練もなく今ようやく外れてくれたのだ。
「美味いな」
そう笑いかけた男の、自分は王を裏切った非国民であるという意識もない顔を、まじまじと見つめながら思う。
きっと自分は、無意識に願っていた。
これが、あの日話した「最後の晩餐」であることを武藤に気付いて欲しいと願っていたのだ。冗談めいていても良い。ただ一言、「昔こんな話をしたな」と笑ってほしかったのかもしれない。
そうすれば、未来はどうだっただろう。
刃を振るうのは今日じゃなかったかもしれない。
『武藤泰宏』は死ななかったかもしれない。
居場所を奪い合うようなことも、なかったのかもしれない。
思いは麺共々、かみ砕いて、流し込んで、胃でドロドロに溶かす。
麺ではない、得体の知れない何かが腹にたまる。
募らせ続けたストレスで胃に空いた穴から漏れ出して全身を蝕む。
悲鳴にも似た耳鳴りがする。
なけなしの良心が、今、音を立てて壊れる。
もう、三途を止められる[[rb:情 > もの]]はこの世に何一つとして残ってはいなかった。
ねえ、隊長。
長年の夢も、大事な主君も失って、
もうすぐ居場所もなくなる、
今の気持ちはどうですか?
思い出してほしかったです。
忘れないでほしかったです。
良い兄貴で、いてほしかったです。
「はい、美味しいです」
あの日のように、武藤も笑った。
彼の笑顔は、これが最期。
啜ったラーメンの味は、みらいにこびりついて、未だに落ちそうにない。
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───────十数年後
テーブルにうつ伏した男は既に絶命していた。
だらしなく開けた口から泡を吹く肉塊を、カトラリーの中から取り上げたナイフでつつきながら、灰谷蘭はつまらなそうに呟いた。
「あーあ、死んじゃった」
「なに寝ぼけたこと言ってやがんだ七三野郎。殺したんだろうが」
「食前酒に毒盛ったのはお前だろ?ヤク中。ヴィアンドまで生かしておこうって言ったのに」
「勘付かれる前に殺っちまった方がいいだろうが。こっちまでミイラになるのは御免だ」
「このアホ若頭が?ミイラ取りにすすんで会いに来るようなミイラだぜ。オレらの暗殺計画なんて気付くかよ」
言い方はいつもながら鼻につくが、言っていることは正しいので反論する術なく口を閉ざす。
実際、自分たちの手で、たった今かえらぬ人となった□□組の若頭は、救いようのないほど馬鹿野郎で、素行が悪かった。梵天組織の鉄槌がくらったのも、そんな悪行の積み重ねが目に余るようになっていたからである。
「…だとしても、テメェの趣味が悪い計画に付き合うつもりはねえよ」
「そう?結構皮肉が効いてて良いと思ったけど」
数日前、この任務を蘭と遂行すると決まった日。夜に唐突に部屋を訪ねてきて、持ちかけられた話を思い出し、頬が歪む。
忘れもしないその内容は以下のとおりだ。
ターゲットとの会食が順調に進んでいく中、ヴィアンド(肉料理)と称して空の皿が男たちの前に出される。
戸惑う若頭に対し、
「ヴィアンドの主役はアンタだよ」
そう満面の笑みで死刑執行を告げれば、たちまち純白のテーブルクロス下でお留守になっていた拳銃が、待ってましたと言わんばかりに目を覚まし、男の眉間を貫く。血を噴き出しながら、力なく前のめりに倒れこむ男の額が、ガシャンと耳障りな音を立てて真っ白い皿の上に落ちる。
あっという間に、人肉料理の出来上がり。この間、僅か三秒にも満たない一瞬の出来事。華麗なる暗殺。
それが、灰谷蘭が考えた、猟奇的すぎて笑えない、食欲も男も地獄のどん底に落ちる計画であった。
相変わらず、最高にサイコな思考回路には辟易。
あの時の楽しそうな蘭の顔を、三途は今でも忘れられない。
「あーあ、お前が好き嫌いするようなガキじゃなかったらヴィアンドまで楽しめたのにな」
「あ?テメェだってピーマンいつも竜胆に押し付けてんだろうが」
「あれは竜胆の健康のため。愛だよ、愛」
「甘えだろ。つか、人肉料理が作りたいなら個人的にやれ」
「じゃあ今度お前でやろっと」
「予定変更、若頭共々テメェも今ここで殺す」
「へー、じゃあオレも東京湾のマグロの餌か。沈んだ魂とは邂逅できるかな」
意味深な笑みと言葉を落として、男の傍を離れ、自身の席に戻る。向かい合わせに座った蘭は、途中で止まっていたコース料理を死体には目もくれず優雅に再開する。
間接的とは言え、よくもまあ死に触れた直後にぬけぬけと飯がくえるものだ。こんなの人間業ではない。間違いなくコイツは人間になり損なった悪魔だな、と訝しげに蘭を睨んでいれば、ふと上げられた視線とぶつかり、そのままにこやかに微笑まれて、こう告げられた。
「三途も食ってみれば?美味いよ。お前が思ってるより、ずっと」
「寝ぼけたこと言ってんな。コイツのバラしもあるしオレは帰る」
「そう。勿体ない。…あ、そう言えば武藤も好きだったなあ、これ」
洗練され尽くした蘭の嫌味に耐えられず、大きく舌を打った後、早々と部屋をでた。
華々しく豪華な装飾が成された、梵天の管轄内であるフランス料理店の廊下を、大股で歩いて後にする。
「…気色わりぃ」
禍々しい唸り声が口からこぼれて、そのまま吸い込まれるように地に堕ちた。
『─────沈んだ魂とは邂逅できるかなあ』
不意に。先程の言葉が頭に過ぎって、思わず足が止まる。
フォークとナイフを上手に使い、テーブルマナーの手本のように「それ」を口に運んでいた蘭の様子を思い出して吐き気が込み上がった。
「…食えるか、あんなもん」
コース料理が並べられたテーブルの上に平然と佇むあれは、三途が知る限りもう食べ物じゃない。
あの日から、ずっと。
まともに食べられなくなった食材。
「共食いはごめんだ」
聞こえてますか、隊長
もし聞こえているなら、この言葉を聞いた後
早急に死んでください。
あの日から 魚が食べられなくなりました。
魚を食べると どうも頭が痛くなる。
食物連鎖に混入した
お前を食べているようで。