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ドリスという女はどこまでも平凡な生まれだった。
アドラーの中産階級として生まれ、それなりの教育を受けて成長し、これといった不自由なく生きてきた。

彼女がまだ小さい頃に、玩具を親戚からプレゼントされたことがあった。
その時、彼女が欲しかったものはピンクの牛のぬいぐるみだったのに、贈られたのはピンクのうさぎのぬいぐるみだった。
もう少し大きければ、少女は素直に受け取ることもできただろう。
だが、まだ幼い彼女にとって欲しいものと違うものを貰い、礼を述べることができなかった。
「これじゃない」
「こんなの欲しくない」
そういって駄々を捏ねる彼女を両親は咎め
「人の心を考えなさい」
「贈ってくれた人のことをどうして考えられないの」
と叱りつけた。

少し後に、彼女はスラムの子供たちを見かけた。
薄汚れた服装、栄養失調なのか膝が目立ち、唇は青紫だった。
だから、彼女はそんな子供を「可哀想」だと感じてパンを贈った。
だが、その時の子供の反応は彼女の予想とはまるで違った。
「あわれみやがって」
「馬鹿にするな」
浴びせかけられた拒絶の言葉、突き飛ばされて転びながら、幼いドリスはただぼんやりと走り去る子供の姿を見ていた。
そして、少女は一つの結論にたどり着いた。

「私には人の心が分からない」

ごく当たり前、成長する上で誰もが通る経験に過ぎないが、少女にはこの結論が焼き付けられた。

人の心が分からないのだから考えたって仕方が無い。
贈る側の気持ちなんて受け取る側には関係ない。
なら、自分が贈りたいものを贈りつければいい。

表面的に少女はいつも上手くやっていた。
友人こそできないとはいえ、 それは彼女が「人の心を理解しない」からであり、社交性に欠けていたわけではない。
双方向の関係を築けないまま、ただ表面的に彼女は上手くやった。

学校では成績もよかったし、いじめられたこともなかった。
就職してからもそれなりに要領がよく、叱責されることはなかった。
家庭でも両親との関係は穏やかで、少女もまた深い不満など持たなかった。

けれど、恋をしてしまった。
初恋としては随分遅い部類だろう。
軍に所属する男に恋をした。

初めはただ、たまに見かけられれば満足だった。
「よく会う」と認識して、彼から声をかけられて気持ちはエスカレートした。

彼ともっとよく会いたい。
彼をもっとよく知りたい。
彼をもっと、もっと、もっと、もっと、もっと……
欲しくて堪らなくなった。

幸い相手は内地勤務、出会おうと思えばセントラルの近くを散歩すればいい。
両親に自活したいと言って、彼の住まいの近くに部屋も借りた。

「よく会いますね、私たち」

世間話混じりに彼を知っていく。
彼で自分の中が埋め尽くされて、塗り替えられていくのが心地よかった。
彼を好きでいるという感覚が少女の全てだった。

愛情のエスカレートは留まることを知らない。
ついに少女はセントラルへと踏み入ってしまった。
毎日通ううちに、警備の手薄な場を見つけることに成功していたのだ。
理性など、愛の前にはまるで歯止めにならず、彼の姿を探してセントラルへと入った。
けれど、かつては修道院であり今では旧日本軍の施設と融合したセントラルの内部は複雑に入り込み、少女が道に迷うには十分だった。
けれど、それでも本来ならば彼女は警備兵に見つかり適切な指導と適切な罰を受けて、少なくとも生きて帰ることだけはできたはずだった。

道に迷った末に、彼女はある施設へと立ち入ってしまった。
無茶苦茶に歩いていた結果辿り着いたに過ぎぬその施設にはいくつもの配線があり、いくつもの機材が並んでいた。
計器の類が示すものを彼女は知らず、ただその先の異様さに目を奪われた。
自分よりも更に幼い少女の浮かぶ血の池のような水槽から目を離せなかった。

悲鳴は上がらなかった。
上げることさえできなかった。
自分が生きてきた国では何が起こっていたのか、理解さえできず、ただまずはこの異状から離れようと、愛している彼を探すことさえ放棄して来た道を辿った。
道順など覚えているはずもないけれど、走って、走って、外を目指した。
とにかくこの施設から出なければいけない。
この施設は自分が知ってはならないものだったのだ。
本能が喧しいほどに警鐘を打ち鳴らし、その度に肺が痛むのも忘れて少女の体は前に向かった。
階段を駆け上がり、そのまま外へと出れば、そしてこれら全てを忘れ去って、ただ日常に帰ろう。
そう願い、痙攣さえし始めた足を更に上げた瞬間だった。

「謝罪はしよう。だが、お前は生かしては出せん」

その直後、彼女の体は2つに別れていた。
足は硬直したまま階段に残った。
慣性に引きずられて前へと飛んだ胴体は階段へとぶつかり、そして転がり落ちた。
滑落の瞬間、少女は自分を殺したものの姿をはっきりと見つめていた。

──東部戦線の英雄、クリストファー・ヴァルゼライド。

例えどんな理由があろうと、罪は罪だ。
別段、それを裁かれたことにドリスは不満などまるでなかった。
まして、転がり落ちた時に頭が砕けたせいでまともに思考する余裕さえなく、少女は死に沈んだ。
だから、ドリスという愚かな女の人生はここで終わるはずだった。


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