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ドリスの愛は常に前のめり、前進しかできない。
停止することも、抑えることも、まして振り返ることなどありえない。
何故なら単純、脳みそが壊れている。
如何に叡智宝瓶の技術とはいえ素体の段階で破壊され喪失したものは再生の仕様がなく、結果的にドリスの頭は常に理性が沸騰していた。
そうはいっても、流石にヴァルゼライドに絡まぬ限りは生来通りの一般的な倫理観を優先してはいるが。
それは、裏を返せば1度彼に関わればもうあらゆる理屈も困難もドリスの歯止めになり得ないことを意味していた。
「ヴァルゼライド閣下?」
そ、と研究スペースの一角、機械で区切られたブースへと歩みを進めた。
椅子に座り、眉間に皺を寄せている姿は普段通りの瞑想だろうかと思わせたが、その呼吸の違いは英雄が眠っているのだと理解させた。
ヴァルゼライドの生活は常に過密だった。
軍事帝国という性質上、政治家としての側面を持たねばならないし、かといって軍人としての職務もある。
そこに神星との聖戦の下準備、そして弛まぬ自己研鑽。
一般人でしかないドリスにもこれだけのことが積み重なると想定できる以上、ヴァルゼライドがいつ休息を取っているかは寧ろ疑問点とさえ感じられる。
だから、こうきて仮眠を取っている姿を見ると「休んでいる」という事実の認識よりも先んじて、「彼でも人間なのだ」という常識の再認識だった。
眠る彼を目撃するのはドリスにとっても2度目だ。
短いと形容できないほどの期間、彼を観察し続けて漸く2度目。
前回は彼の下半身に触れ、わざと怒りを買うことに成功したけれど、改めてその眠る姿を見て、今度は何をしようか、などと考えていた。
眉間に深く、深く刻まれた皺は、彼の自己評価の低さゆえだろうか、塵屑と自分を評価し、前に進むことしか出来ないくせにその進撃の犠牲者を慮る彼らしい、とドリスは思った。
顔に斜めに走る傷跡は随分と古いもののようだが、くっきりと刻まれていて恐らく本人も消すつもりがないだろうし、自然治癒はしないのだろう。それが誰によって付けられたか知らないが、ドリスは付けた相手への嫉妬を感じた。
それから、それから、数秒にも満たぬ観察の間にドリスは多くのことを考えていた。
ドリスにとって恋が全てだった。
愛する彼がどう考えるか、ではなく愛する彼を愛していたいという妄執の暴走。
だからこそ、ヴァルゼライドは決してドリスの愛を認めない。
振り向いてとも、愛してとも、共に征こうとも言わない、見ているだけの観客の想いなど、真摯に諦めさせる必要性すら感じなかった。
だから、観察を続けているうち不意にドリスが辿りついた発想は、ドリス本人にとっても、眠っている英雄にとっても想定にないものだった。
「見たことないな、そういえば……」
追いかけ続けて、見つめ続けて、それでもドリスが1度も目にしたことがないヴァルゼライドがいた。
それは、「笑顔」を浮かべているところだ。
困惑も呆れも怒りも見てきたし、知っている。
決意を秘めた凛々しさ、雄々しさなど常のことだ。
眩き大義を掲げて突き進む英雄としての顔はドリスならずとも多くのものが知っているだろう。
けれど──徹底して笑顔だけは見たことがなかった。
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