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翌日の午後、ドリスは普段通りに雑貨屋の店内にいた。
仕事ぶりは普段通り、客足も普段通り、にこやかに振舞って適当に愛想を振り撒いて商品を梱包して……何もかも普段通り。
ドリスの心境を除いて、何一つ変化はない。

店内から一旦客足が引けた事を確認してから、ドリスは昨日のことを思い出していた。

──俺のような塵屑にはお前に愛される資格もなければ、お前を愛する資質もない

初めて、人造衛星となってから初めてヴァルゼライドから向けられた純粋な善意だという事はドリスも痛感していた。
ヴァルゼライドは自身を本気で塵屑だと思っていることも、そんな自分を愛することの不毛さを説いていることも理解している。
そしてそれらは漏れなく正論だ。
英雄は決して個人を愛さない。
友情や絆を育む事はあるだろうし、情愛へと至ることも皆無ではない。──だとしても、英雄はあくまで単騎だ。
自分の理想と道が異なればどれほどの苦痛があろうとも彼は雄々しく決断し、間違いなく友を、絆を、愛を斬り捨てて進むのだ。
だから、ドリスはほんの些細な決断をした。

その日は店を早めに閉めた。
客が引くのも早かったし、特に用事があるわけではないけれど、陳列棚を片付け、店内の清掃を終えてから外へ出ると、時刻はもう午後7時近くになっており、空は夕闇に染められ月光と第二太陽の輝きが街へと向けられていた。
静かな夜だ。ドリスの決意を後押しするように、静かな静かな夜だった。
東部戦線停滞により経済は以前より低迷しているとはいえ不景気とは程遠く、どこの家の窓からも明かりが漏れている。
この輝きこそがヴァルゼライドが守りたいと願っているもので、彼らが当たり前のように明日も同じ暮らしを過ごせることを望んでいるのだろう。
いや、より良い明日を、という言葉を額面通り受け止めるなら、今日よりも幸せな明日を無条件に信じられる──つまるところ、未来を希望的に考えられることを望んでいるのだろう。

ドリスの決意はそんな大それたものではなかった。
そもそも、ドリスのような一般の凡俗には顔もしれないどこかの誰かのために尽くしてやろうという気持ちは微塵もない。
知り合いだから手を貸そう、目の前で困っているから手助けしよう、という感覚は芽生えるかもしれないが、無条件に無関係の誰かを助けたいなどと願う事はできないし、ドリスがそれを願ったところで所詮は英雄の真似事だ。
だから、ドリスの決意は本当に凡俗に相応しい卑小な物に過ぎなかった。

月光と第二太陽の輝きに照らされて青白く光る石畳の上を歩いて自宅に戻る。
ああ、そういえば素体はこの側に住む軍人が好きだったのだっけ。
もうしばらく思い出してさえいなかったことが僅かに頭を過ぎった。
やはり欠落した脳は素体の恋した相手を思い出させてはくれないが、まあいいか、と前向きな気持ちでドリスは自宅に戻った。
一般的な一人暮らし向けのワンルームアパルトメント。
来た当初はフローリングに、打ちっぱなしコンクリート壁の本当に質素な数を増やすことを前提にされた部屋だった。
今は壁紙はアイボリー、カーペットはモスグリーン、家具は赤茶でまとめた落ち着いた部屋となっている。
壁一面に貼り尽くされたヴァルゼライドの写真を除いては。
どの写真もやはり笑顔はない。
新聞の、タブロイド紙の、ポスターの切り抜きでさえ微塵も笑顔はない。
彼のラジオ放送時の声を録音したレコードを蓄音機へとかける。
彼の声、彼の姿、それらに包まれて頭の中身までも埋め尽くされていくのがドリスの歓びだった。
それは今も同じだ。

「ヴァルゼライド大佐……」

名前を呼ぶだけでどれほど気持ちが軽やかになるだろう。
彼の姿を脳裏に描くだけでどれだけ強く心を持てるだろう。
それらは光に焦がれたからでもなんでもなく、ただドリスという1人の女がクリストファー・ヴァルゼライドという1人の男を愛したからこそ振り絞れる力でもあった。
だからこそ、ドリスは妄執から少し離れて決意をすることができた。

「あなたに笑ってほしいから」

子供の頃以来で、誰かのためにほんの少しだけ気を使ってみることにした。
とはいえ、根幹は自分がヴァルゼライドに笑って欲しいだけ。
浅ましい自己愛に過ぎないと自覚しながらも、ドリスは出した結論にそれなりの満足をしていた。

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