恍惚の従僕


郊外の武家屋敷にはお化けが住むと小学生の間で噂になっていた。
もちろん、そんなものはただの迷信。
お化けの正体とは、枯れ尾花ですらなく、先週県外から移り住んできたばかりの御影 雪彦だった。

青白い肌の細面に、顔の右半分をそっくり覆うように伸びた黒髪、枯れ木めいて痩せているくせに背丈ばかりは並より大きい。
その姿を見て、子供達が怯えるのを御影本人もいくらかは仕方ないことだと諦めていた。
というよりも、御影本人が諦めていないことなどただの一つしかないのだ。
差別のない世界。
それこそが御影 雪彦唯一の願いであり、聖杯へと掲げる祈りであった。

思えば御影 雪彦という男は多くを諦めてきた。
生家の没落により勉学を、
虚弱な体質により運動を、
友情、恋愛、金銭、地位、名誉……多くのものが彼の手のひらからこぼれ落ちた。
それら全て、御影は「仕方ないこと」と諦めてきた。
けれど、御影 幸彦はどうしても、他人の不遇を見捨てることができなかった。
不条理によって、環境によって、本人に責任のないあらゆる事由によって傷つく誰かをみる度に、御影の心はひどく痛んだ。
だからこそ、御影は殆ど財産を失った家を飛び出して、あらゆる手段を尽くしてきた。
ボランティア活動として戦地、災害地へ向かった回数は三桁近くなっていた。
そしてたどり着いたのが、かつて飛び出した家に由来する魔術の血筋だったのは皮肉とも言えるだろう。
あらゆる願いが叶う万能の力を有した聖杯――その製作にかつて、自分の親族が関わっていたことさえ、御影には運命に感じられた。
自分の諦めてきた全てはこの答えに到達するための供物だったのだ。
流した涙も、自らの痛みも失望をもくべて、この聖杯へと到達しなくてはならない。

そして、聖杯はすでに一つ、予期せぬ形で御影の理想を一歩現実的なものへ変えていた。

「おはようございます、ハイドリヒ卿。 今朝は少し騒がしいですね」

市内で起きた殺人事件のニュースを見ているランサーへと御影は声をかけた。
古めかしい書院造の部屋に似つかわしくない美丈夫だった。
逞しい肩幅に、長い見事な金髪を揺らす様はさながら黄金の獅子だ。
御影は自らのサーヴァントに対して恭しい態度を崩さず、枯れ木めいた体を曲げて挨拶をした。

「ああ、どうにも気の早いマスターが動いたらしいが、この地の守りは大丈夫なのかね」

返答をしたランサーはマスターのその態度を当たり前のこととして受け止めながら、この古めいた屋敷の防御について問うた。
テレビ画面に映し出されたオートロックのマンションに比べ、この屋敷はなんと隙間だらけであろうことか。
漆喰の崩れかけた塀はところどころが欠けて、外の道路が見えているような有様だ。

「ご安心ください。 少なくとも、正面切って爆弾を投げてくるような相手以外には対処できますよ」
「なるほど、やはり手榴弾には用心がいるか」

冗談めいた口調で頷くランサーを見ながら、御影はその顔に僅かながら笑みを浮かべた。
ああ、思い出してみれば笑顔を浮かべることさえ何年ぶりであったことだろうか。


遡ること一週間前、郊外の武家屋敷に居を構えた御影は迷いを抱えていた。
聖杯へ託す願いは決まっている。
けれど、具体的に差別をなくすとするならばどうするのだ。
誰もを平等に、等しく扱うなどということは困難だ。
それとも、そんな夢幻の理想論を過程を無視して叶えてくれるからこそ万能だというのだろうか。
迷いは深く、御影の目元には濃い隈が現れていた。
手にした触媒を魔法陣の上へと置いたとき、指は痙攣したように小刻みに震えていたし、詠唱の最中に何度も声が引きつった。
叶えなくてはならない、という意思と、また失望するのではないか、という恐れが綯交ぜになり、御影は震えながら自分の祈りを何度も、何度も胸の中で繰り返した。
選んだ触媒により現れるであろう英雄は自分の理想とは真逆、差別を助長する側であると理解していた。
触媒として選んだのはナチス高官の軍服だ。
戦場に立たずして勝利をと望んだのは、御影 雪彦の臆病さゆえであった。
だが、現れたのは迷いも恐れも嘆きも、いいや――御影 雪彦として歩んだ全てを破壊しつくすほどの男だった。

「私はラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ。 この度はランサーのクラスによって現界したが、卿が私のマスターか」

黄金、と表現することがこれほど似合う男がこの世にいるのだろうか。
いままで御影が歩んできた人生、感じてきたあらゆる全てが何もかも灰色の霧の向こうへと行ってしまった気がした。
気が付けば御影は両膝をついて、両腕を彼の方へと向けて伸ばしていた。
歓喜のあまりに涙が溢れて頬を伝い落ち、ズボンの中ではスペルムが迸っていた。
この瞬間に、彼を知らぬ無知蒙昧であった御影 雪彦は死に、今こうして彼の前で跪きあらゆる全てを捧げたいと願う御影 雪彦が生まれた。
自分は救われたのだと実感を伴った理解に御影は法悦を覚えていた。

それからの一週間がどれほどに甘美であったことか。
御影は聖杯の知識を補うようにランサーへと現世の処世の術を教え、警戒すべき器物、術理に関する全てを伝えた。
ランサーはその度に己を見つめ、褒め、よい部下だと口にした。
それこそが福音であるとばかりに、御影は更に多くの物事を伝えた。
聖杯戦争における勝ち筋をいくつも、いくつも練って――その全てを破棄された。
己が描いた奇策などどれも男の王道にそぐわぬものであり、そんなものはこの黄金には相応しくなかった。

あなた程素晴らしい人間などこの世にはいない。
あなた程平等に愛を与えられる人間など他にはいない。
だから、その愛をもって世界を塗り替えてほしい。

雪彦の考える、差別のない理想郷に相応しい存在とはラインハルト・ハイドリヒをおいて他にいなかった。

そして今、ニュース番組が切り替わり今度は政治家の汚職についての糾弾になっている。
人間1人殺されたということと、他人の足を引っ張ることが同列で語られている気がして、御影はまた一つ諦めの色を浮かべた。
朝の空気がひんやりと入り込む居間で、薄暗い顔をしているのは御影のみであり、ハイドリヒは気にした風もなく朝食として提供されたバタートーストをかじっていた。
サーヴァント、以前にエイヴィヒカイトには食事など本来は必要ではないが、習慣として、そして娯楽としての食事というのも悪いものではなかった。
祖国ドイツでは見たことのない畳が敷き詰められた床は柔らかく、かつ断熱性があり温かかった。
座ったまま、ハイドリヒは御影が用意してくれたコーヒーを口に運んだ。
ハイドリヒの見る限り、御影は極端なところはあれど、合理性に富んだ男であり、魔術師に多い誇大妄想狂でもなければ、厳格な伝統を重んじる気質でもなく、話す分には悪くない男であった。
無論、それは話す分には、という例外を付け足す必要があったが。
ともあれ、こうして拠点を構え準備を凝らして一週間。
戦争の下準備には短すぎる予備期間を終えたことにハイドリヒが笑みを浮かべたちょうどその瞬間、屋敷の黒電話がリンリンと大きな音で鳴り響いた。

これが開戦の砲であることは、御影にさえも直感で把握できた。

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