痛みの名前
日勤終わり。
今日は担当地区の見回りしててもデケェ事件なんかは起きなくて。
クソのどかに一日が終わって自分の家に帰ろうとマンションの廊下を歩いていた、そんな時だった。
聞き覚えのあるすすり泣く声が自分の部屋の手前の戸から聞こえてきたのは。
『うぅ……、ふっ…うっ…』
(………402…)
園生咲子。
なりゆきで料理を教えることになった隣に住んでる女。
締まりのねェ顔で自分の名前を呼ぶ"隣人"の部屋だ。
進めていた歩を静かに止めて、爆豪は玄関に向かい合うように体の向きを変える。
くぐもったすすり泣く声は、爆豪が暫く無機質な戸を見つめていても途切れることは無かった。
声量と聞こえてくる場所からして恐らく玄関でへたり込んでいるのだろう、とまで考えて爆豪は苛立ちに目を細ませる。
肩を引くつかせ、零れ落ちる雫を指で拭う咲子の姿を爆豪は何度も目にしてきた。
最後に咲子と会ったのが二週間ほど前。咲子が入院をして…病院で自分が見舞いに行った時。
あの時は自分の言動が原因だったが、"アレ"以降自分は咲子と会っていない。
そしてコイツが"こう"なる時は決まって"そう"だ。
「………またアイツの事で泣いてんのかよ。」
爆豪の淡々とした抑揚のない独り言は自分が押したインターホンの音で静かにかき消された。
***
(やっぱ"そう"だったじゃねェかよ…)
咲子の部屋から帰り、爆豪は胸の重怠さに苛立ちながらベッドへと身を投げた。
"結論から言ってしまえば自分の予想は当たっていたらしい。"
咲子の口から直接の原因は聞いていないが、確信を持ってそう言える。
"ーーー…ば、爆豪さんっ"
(あーー…うぜェ…。)
涙声になりながら自分を呼ぶ声も。
仄かに赤く腫れた潤んだ瞳も。
消し去りたいのに、忘れたいのに、頭から離れない。
むしゃくしゃした気持ちをかなぐり捨てるように頭を掻いても心が晴れることはなかった。
(ーー……あの時。)
咲子に不意に自分の手を掴まれた、あの時。
柔らかい指先が自分の手に触れ、自分のものより幾らかあたたかいソレにとくりと胸が高鳴った。
不安そうに揺れる咲子の瞳に映る自分は随分と間の抜けた顔をしていて。
突然のことにぱちり、と視線がかち合った咲子は次の瞬間戸惑うように視線を彷徨わせていた。
("………ぁ、")
("…………")
("いや、あの…えーっと…ごめん、なさい…")
弾かれるように離れた咲子の手を、何をするでもなくただ目線だけで見送って。
捕らわれていた時のまま宙に浮かせていた手を、まるで惜しむかのように緩やかに下ろした。
ーー…そんな自分がどうにも女々しくて。
「うっっっっぜえ……」
堪えきれずに身体の内側から漏れた言葉は誰に対してのものでもなかった。