緩急
"ーー?お知り合いですの?"
"あ、あぁ…咲子はーー"
"私…失礼しますッ"
"?咲子っ"
(ー…咲子…)
「ー…さん…轟さん、聞いてらっしゃいますか、轟さん。」
「!……悪ぃ八百万 」
凛とした八百万の声が頭上から降ってきて、ふと我に返る。
テレビも点けずただソファに腰掛けてぼうっとしている俺を、八百万は怪訝そうな顔で見下ろしていた。
……不安そうに下げる眉が、さっきの咲子とダブって眩暈がする。
「?…どうかしまして?」
「いや、なんでもねぇ。…それより悪かったな、急に頼んだのに 結局一人で作らせちまって。」
「このくらいどうってことありません。」
そう言って微笑みながらエプロンを外す八百万。
そのまま帰り支度を始めようとする姿を見て思わず立ち上がった。
「もう行くのか」
「ええ。あまり長居するような時間でもないですし…それに、今日はお疲れでしょうから。」
「?」
「今日の轟さん、ずっと空返事でしたわ」
「え…」
八百万のどこか困ったような、遠慮がちな声に自分の身体が強ばっていくのが分かった。
「先ほどの……確か、咲子さんと仰る方と何かありまして?」
「なんでもねぇ」
「ですが…」
「だからなんでも!!…!っ、悪ぃ…」
苛立ちに任せてつい口から出てしまった大声でふと我に返った。
じくりじくりと喉元近くから内側へ広がる息苦しさに舌打ちしそうになるのをぐっと堪える。
別に八百万は何もしてねぇ。
むしろ俺のこと心配してくれてるんだ、ってことも分かってる。
…けれど今はそのことには触れて欲しくないのもまた事実で。
「ー…すみません、出過ぎたことを言ってしまって。」
「いや…こっちこそいきなり怒鳴っちまって悪かった。」
深く、緩く。
たっぷりと息を吐いて気持ちを整えて八百万の方を改めて見る。
肩を落として張り詰めた表情をしている八百万にかける言葉なんて見つからなくて。
八百万は八百万で何か考えてるみたいだったが、それについて俺が言及する資格なんてあるはずもなかった。
「ーー…そろそろ、お暇しますわね。」
「…あ、ああ」
気まずい沈黙を破ったのは八百万の声だった。八百万は少し力の抜けたように口元を緩める。
「私でお役に立てるのならまたいつでも呼んでください。」
「ありがとう、八百万。さっきは悪かった。」
「いいえ。」
それでは。
そう言って八百万は軽く会釈をしてから俺に背中を向けて玄関から去って行った。
***
買い出しに行ってもらってた八百万を迎えようとして、玄関まで出向いたとき。
礼を言って買い出しの荷物を貰おうとしたら視界の端に見覚えのある人影を見えた。
誰か、なんて考えなくても分かった。
……それでも。
それでも、その人影に目を向けちまったのは多分、咲子がどんな顔をしているのか気になっちまったからだと思う。
ほぼ反射的に目を向けた先にいたのはやっぱり咲子。
栗色の丸い目と視線がかち合った瞬間。言いようのない後悔の念が喉元を狭くさせた。
(………明日、話さねぇと。)