夜の七時過ぎ。
そろそろか、と時計を見ていたら丁度いいタイミングでチャイムの音が聞こえてきて。
外で待ってる人物に確信を持っていた俺がドアスコープを覗くこともなく玄関を開ければ委縮した様子の園生がぺこりと小さく頭を下げた。
『こ、こんばんわー…』
「いつも悪い。」
遠慮がちに上目遣いをする園生。
こちらも頭を下げれば「えっと、」と申し訳なさそうな情けない声が聞こえて、視線を園生に戻す。
『ごめんなさい…今帰って来たばっかなのでまだお蕎麦作ってないんです。』
「いや、こっちこそいつも作って貰って悪ぃ。」
『いえいえ…こちらこそいつもお粗末なお蕎麦ですみません…。』
「?お前の飯はいつも」
『あー!いや!あのっ本当に!大丈夫です!』
終わりのない謝罪の応酬をしていたところで、園生の小さな口から聞き捨てならない単語が聞こえた。
訂正させようと普段の飯の感想を口にしようとすれば俺の言いたいことが分かったのか、園生が困ったように慌てて言葉を遮る。
わざと大きな声を出して俺の声を遮断する園生。
両手で小さく盾を作り顔を背ける姿は全力で俺を拒んでいるように見えて。
大体今日の夕飯はまた蕎麦がいいって言ったのも俺の方からだってこと忘れてる訳でもないだろ。
白い指の間から覗いて見える園生の顔がいつもより赤く見える。
「本当に美味いぞ」と重ねて言えば今度こそはっきりと園生の顔がぼぼぼっ、と真っ赤になった。
……風邪か?
「お前顔赤いぞ?体調が悪いんじゃないか?」
『えっ?えっ、えっ』
困惑気味の園生の声を無視しさらさらと指通りのいい髪をのける。
俺よりも低い位置にある頭を両手でそっと捕まえて、髪を払って露になった肌に額を当てて体温を確かめる。
あぁ、やっぱり。少し熱いな。
目を閉じて少しの間沈黙していればさっきよりも困惑と焦りの強い声が聞こえてきた。
『あ、あの…轟さんっ』
「なん……ッ!」
閉じていた瞳を開けるととくりと胸が大きく跳ねた。
そこには視界いっぱいに園生の顔が広がっていて。
困ったように視線を彷徨わせる姿とか、戸惑いに満ちた仕草とか。
突然目に飛び込んできたその景色に思わず唾を呑み込めば園生がきゅ、と目を伏せた。
ゼロと言っても過言ではない自分と園生との距離。
意識していなかったから気がつかなかったが、少し前屈みになれば鼻先が触れてしまいそうだ。
違う、姉さんとしたときはこんなんじゃ…。
いつになく喧しく動く心臓のせいで息が少しだけ荒くなる。
ガキの時に姉さんや母さんがよくしてくれたのを、見様見真似でやってみたが、二人とした時はこんな風には一度もならなかった。
…やり方間違えたのか?
『そ、そろそろ離していただきたいんですが!!』
「ッ…悪ぃ」
瞳を閉じて声を張る園生。
叫びと言った方が正しいかもしれないその声にはっ、として密着していた身体を離した。
離したばかりの額にはまだじんわりと園生の熱が残っている。
それがやけに俺の身体を強張らせていた。
『今のって…』
「熱測ってたんだ。よくやるだろ。」
『よ、"よく"…!?』
口をぱくぱくとする園生。
目を合わせるのに抵抗を覚えて目線を上に泳がせてそう言えば園生はふるふると震えて下を向いてしまった。
身長差もあってか表情がまるで読めない。
だんまりを決め込んでしまい動きのない園生に不安を覚え、なんとなく横から顔を覗こうとすれば、園生はふいと顔を背けてしまった。
逸らされた視線の先を追うようにまた顔を覗く。
すると園生は顔を下に向けたまま俺に後ろを向かせ、背中をぐいぐいと押し始めた。
いきなりの行動に思わず園生の名前を呼べば「ご飯作りますから」と今日のそもそもの目的を口にした。
そう言えばそうだった。もうすっかり蕎麦のことなんて忘れていたな。
「なんか手伝うか?」
『結構です!!』
押される背中に目をやりながらそう尋ねれば即座に突っぱねられる。
されるがままに普段飯を食べる定位置へと移動させられれば、園生は「すぐ作るのでくつろいで待っててくださいっ」とだけ言ってエプロンを被り始めた。
困り顔で慌てているかと思えば、林檎みてぇに赤くなって怒ったり。変なところが律儀なところもやっぱり似てる。
ころころと変わる表情。
独り言が少し多いとことか含めて緑谷みてぇだ。
けれど笑った時に首をかしげる癖とか、雰囲気だとかそういうところはお母さんにも似てる。
園生からみれば俺はたまたま部屋が隣になっただけの人間。
出逢ってからまだ一か月しか経っていない園生は俺のことを何も知らないのだろうし、きっと自分が友人と母親に重ねられているという事も知らないと思う。
自分だって園生のことは全くと言っていいほど知らない。
飯を作って貰って、流れで時々一緒に夕飯を食べる。
奇妙なこの関係は言葉通りでそれ以上でもそれ以下でもない。
けれど、"仲がいい隣人"で済ませたくない自分がいるのも確かで。
……なんだ、これ。
小さく燻りだした疑問は音もなく急速に広がり始める。
ヒントを探すように、こっそりとキッチンに立つ園生を見つめてもこのもやもやとした疑問は晴れなくて。
『?どうかしましたー?』
「…っ」
園生と目が合う。
もう何度したか分からない何気ない事の筈なのにその時の俺はなんでもないと応えるだけで精いっぱいだった。