デンドロビウムの憂鬱

『あ、見てこれ鋭児郎。"列怒頼雄斗、深夜に若手女優と密会"だって。』
「ブッ!!」

たまたま休みが被ったオフの休日。

まったりとした時間は名前の淡々とした声により突如終わりを告げた。

夕飯を一緒に食べて、それからシャワーを浴び終わって。冷蔵庫から取り出した牛乳をごくごくと飲むまでは良かった。

問題はそのあとだ。

腰に手を当てて気持ち良く喉を潤す俺に名前が何の脈絡もなくそんな事を言い出すものだから。俺は口に含んでいた牛乳を思わず吹きだしてしまって。

いつもだったら汚い、だのカッコ悪い、だのけらけらと笑う名前が一言も発しない。

いつもとは違う違和感だらけの名前の様子に俺は思わず声も出せなかった。



『この女優ってあれじゃん。前に上鳴くんがかわいーとか言ってた』
「そ、んなこと言ってたっけか?」

ぽたり、ぽたりと頬を水滴が伝う。

それが髪から伝ってきた水滴なのか冷や汗なのかは俺にも分からない。

けれど今の状況がとても穏やかでないという事だけは流石の俺でも嫌というほどに分かってしまう。

ヤバい。

大変ヤバい。



「あ、あのさ名前…」
『パパラッチの人も大変だねー…ずっと尾行してなきゃなんだもんね』

ご苦労様だわ、なんて言ってまたかぷり。アイス片手にさも興味ない、といった態度をとる名前。

そんな名前に言いようのない不安が俺を襲う。

「待て、本当に待て。違う。」
『"違う"って。実際に撮られちゃってるじゃん。』
「ぐ…」

ファットさんに迷惑かけないでよ、と溶けかけのアイスを突き付けられる。

けれど雑誌を冷めた目で見下ろす視線とは1mmもかち合わない。名前のもっともらしい言葉にぐうの音も出ない俺は思わず言葉に詰まってしまった。

部屋の中は嫌な空気で満たされていて、イヤな圧迫感を覚える。見慣れてしまったこの部屋もいつもの自分の部屋じゃないようにさえ感じてしまう。

まるで人質をとった敵と交渉をするような気分だ。



「それは本当、誤解で」
『そりゃこんな美人さんがいたら鼻の下も伸びちゃうわよね』

ソファに投げ出された脚がゆっくりと組み直されて、ショートパンツから柔らかそうな太ももが覗く。

風呂上がりの身体を動かしたせいかボディーソープの香りが俺と名前のあたりにふわりと漂って。


うわ、えっろ。

って、いやいやそうじゃなくて。

空気も読めずふと湧いてしまったむらむらとした気持ちを気合いで押さえ、名前との距離を詰めた。

相手を見る時は自分の両目を相手の片目に向ける。

交渉術のテクニックをこんなところに使う日が来るとは。



「聞いてくれ。
その人とはたまたま帰り一緒になっただけなんだ。」
『ここホテル街じゃん。』
「いや、まぁ…それはそうだけど」

その日は深夜のワイドショーにゲスト出演していて、たまたま撮影していたスタジオの近くがそういう場所だったというだけなのだが。

そんな事細かな事情を知らない名前に違う、とも言えないし。どうしたものか。

わしわしと頭をかいてこっそりとため息を吐く。

どうしたらこのお姫様は機嫌を直してくれるのだろうか。

そんな気持ちでふと問題の名前へと視線を向けたら、思わずぎょっとしてしまった。雑誌を睨み付ける名前の瞳にはうっすらと水の膜が出来ていたから。

小さな変化に気がついて、名前を呼ぼうとすれば、すんすんと鼻をすする音が聞こえてきて。

『鋭児郎のばか、ばかばか。』
「名前、」

徐々に膨れ上がった水膜は呆気なく崩壊してぽろぽろと紙面を濡らした。

そんな姿を見て可愛いと思ってしまう俺はヒーロー失格なのかもしれない。

『浮気よ、こんなの。』
「うん、ごめん。」

状況は悪化してしまったはずなのになぜか俺は力が抜けてしまって。

震えた声で恨み言をぶつぶつと呟く名前の身体をゆっくりと包み込む。

背中をぽんぽんと叩きながら耳元にそっと口づけをしてごめん、と強く抱き寄せればまた小さく「馬鹿。」て怒られてしまった。

ん゛ー可愛い。めちゃくちゃ可愛い。

『浮気、とかは疑ってないけどさ。こういうの見たらさすがにちょっと傷つく。』
「本当にごめん。」

いつまでもこうして抱き合っているのもいいけれど、やっぱり名前の顔が見たくなってしまって。

そっと力を緩めれば、恨めしそうな名前と目が合った。赤くなってしまった目元の雫をそっと拭う。濡れた睫毛が妙に色っぽい。

しっとりと湿った瞼にキスを落とせば今度は真っ赤になる名前。その様子がなんだか愛おしくて。

『何にやにやしてるの』
「すみません。」
『罰としてこのアイスまた買ってきて。今から!』
「んでもその前にー…」

二人分の体重がのしかかりぎし、とソファが軋む。

俺は名前の口元についたバニラミルクをぺろりと舐めてゆっくりと名字を押し倒した。