岩泉一は無神論者である。
どうしてか同業者たちは皆、神を崇め縁起を担ぐ。各々組事務所や本家に設えてある、わざとらしいほど驕奢な神棚に手を合わせ、加護を乞うのだ。潰したい相手でもいたのか、ある組の若頭は願を掛けるためと、褌ひとつで祝詞を捧げ塩を撒き冬の海に入ったのだと言う。雨が降ろうが雪が降ろうが、幾日も。極道などと格好よく言ってはみても、所詮ヤクザはヤクザ。自分たちは一般的な善悪の判断基準からすれば、善の対極、振り切れた悪でしかない。その悪の中にある欺瞞的な正義のためなのか、ただ罪を赦されたいだけなのか、岩泉にはわからないけれど、神の前では皆こぞってこうべを垂れていた。自らを正当化するために形式と格式を重んじる彼ら。腹の中でどれだけ醜い一物を抱えていたとしても、それだけは捨て置くことのできない肝要な儀式であるのかもしれない。岩泉とて脈々と受け継がれる悪の系譜が、たとえ長い時の中で組織としての形をようよう変えようとも、決して途絶えることはないのだと理解している。その形式も格式も。なのでわざわざそれらを否定するつもりはない。ただ己の中で肯定しないというだけだ。岩泉の縋るものは、そこにないのだから。
いるのかどうかもわからない神よりも、ずっと尊く無二なる存在。及川とは、甘いのに毒みたいに蠱惑的で、強いのに薄硝子みたいに脆くて、優しいのに悪魔みたいに酷薄な男だった。死ぬまで岩泉が側にいることを疑いもしない。離れるなら殺してやる、それは愛の囁きと同義であった。ただ残念なことに岩泉だって及川に対してそう思っている。情愛や依存なんて薄っぺらな言葉では尽くすことのできない関係。愛おしすぎて憎しみすら湧いてくるのだから大概に困る。岩泉は、及川の透き通る榛色の瞳に、無限の世界を見ていた。
「……事情はだいたいわかりました。それで、塚原さんはどうするつもりですか」
「もちろん及川の罪を追及して、然るべき処分をしてもらおうと思っているが」
「そうですね。これが本当であれば組への背信ですから。自分も賛成します」
「おお、お前がついてくれたら話は早い。いつも及川の我儘に振り回されるお前が不憫だったからな。後も悪いようにはせん」
「ありがとうございます。では早速金の流れをまとめましょう。上を納得させるだけの証拠をあげてみせますよ」
塚原は肥えた腹を揺すりながら目を細める。うまく野心を隠した狡猾な豚だ。
東北一帯は牛島、澤村、及川の祖父が頭を務める三つの組でその均衡を保っている。もともと及川は妾腹の子として、幼い頃は何も知らされずに母ひとり子ひとりの母子家庭で育った。そこで当時近所に住んでいた岩泉は、どこまでも素直で愛らしく泣き虫な及川と出逢ったのだ。あの頃はまさか及川の親がヤクザだったとは、そうして共にヤクザになろうとは、露ほども思っていなかったけれども。恐らく祖父や父だって同じ気持ちであっただろう。父が病で若くして死ぬまでは。しかも本妻の息子が跡目相続を拒否したのだから、本家の混乱ぶりは想像に難くない。優しくて親の言いなりだった彼が、やりたいことがあるのだと、出奔も辞さない頑なさを見せたのは初めてのことだったらしい。祖父は説得にも恫喝にも耳を貸さない本家の孫を諦め、慎ましやかに暮らす及川へと白羽の矢を立てた。泣いて縋る母親から引き離し、及川を本家へと連れて行ったのが高校生の時分。母親にも未練はあっただろうけれど、それ以上に岩泉と離れることを及川は嫌がった。岩ちゃんが一緒でないなら死んでも行かないと言った瞳にもう涙はなくて。その強い意思を放つ澄んだ榛色を忘れることはきっと生涯ない。いつ蒸発するかわからない本妻の息子に継がせるよりも、岩泉さえいれば何でもいいと言う及川を祖父は選んだ。組織を統べる者としては懸命な判断だろう。既にふたりでいることが息をするみたいに当たり前であった岩泉には、共にゆかない選択肢などありはしなかった。そうして今に至る、と言いたいところだけれど、ふたりは端折るには些か濃密で険しい数年間の道程を歩むこととなる。
まずは豚箱か犬小屋かと唾棄したくなるほどの、組員とも言えぬ下っ端が暮らす、まさに動物園の檻みたいな部屋に放り込まれた。動物園にはやはり獣しかいない。どちらかと言えば動物園ではなくて野生の獣だったのだけども。そこで理不尽な上下関係だとか、群れで生きるための全てを叩き込まれた。炊事洗濯掃除だなどと花嫁修業かと笑ってやりたくなることまでみっちりと。事あるごとに殴られ蹴られ、下の者は何をされても仕方がないみたいな空間だった。まだ盃も受けていない者ばかりの檻だったから、皆半端で頭も悪いのだ。憂さを晴らすためだけの暴力。及川が跡目であることは伏せられていたし、新入りなんて獣たちからすれば、理由なく半殺しにできる生意気な獲物でしかなかった。当然岩泉とて同じ扱いである。そんな中で否応なしに、状況に応じて最適で効率のよい人の傷つけ方を学んだ。精神的にも肉体的にもだ。自分の腕や脚、拳が物を言う世界があることも知った。やられっぱなしはどうにも我慢がならないとやり返してみれば、いつしか訳もなく殴られることは減ってゆき、そこで思い至る。汚れていようがいまいが、この世界では、力は、強さは、正義なのだと。及川を守るために何が必要なのか、そのときはっきりとわかった。刃を向け喚く者は黙らせればいいのだ。相手の生死など問う必要はない。
対して及川はと言えば、花嫁修業もどきもやりたくないと拒否をし、自ら獣たちと意思の疎通を図ることもなかった。檻の中でも常に岩ちゃん岩ちゃんと岩泉に纏わりつくばかりで。当然躾の名のもとに手酷くやられていたのだけれど、及川はいつも笑っていた。それは綺麗に笑うのだ。獣たちが気味が悪いと一瞬殴る手を止めるほどに。けれど岩泉にとってその笑みは、掃き溜めの中であらたかに煌めく救いに他ならなかった。気味が悪いどころか、見る度にぶわりと肌が粟立ち、背に鋭い快感が走る。訳もなくこの身が愉悦に震えた。
そんな及川もある出来事を境に、獣の駆逐へと己の向きを転じることとなる。それからはふたりが組めば世紀末すら生き抜ける勢いだった。完全に無双だ。相手の生死を問わないということは、手段も選ばないということなのだから。良心は及川のやわい笑みにくるりと包まれて、いつしかシャボン玉みたいにふわふわ漂い弾けて消えた。獣に傷が増える毎に、自分たちの傷は減ってゆく。やられる前にやればよいだけ、制するだけ。それは単純でくだらない、何とも明朗な事実であった。
檻の中は獣の世界。食物連鎖も相まって、ヒエラルキーは揺らぐことなく確立されている。自分の置かれた階層に留まることができぬ者、上を喰らうことができずに敗れた者、上から蹂躙されて立ち上がることができぬ者、そのいずれもがただ無慈悲に排されるのみだ。生きて逃げ出せた者はまだ幸運。誰かが地獄だと言っていた。それを聞いた及川はまた笑う。あの甘い酷薄な笑み。ここはこの世の極楽だよと、戦慄くその誰かに囁く及川。艶かしい花香はいつも凄絶に劣情を煽る。それは岩泉を蕩かす、百種の蛇から作られた蠱毒のようだった。
その頃には檻に閉じ込められるだけではなくて、暴対法など何の制約にもならない仕事もさせられた。法も警察も、結局は臭いものに蓋をする腑抜けた役立たずばかりで。体よく言えば、持ちつ持たれつだ。必要悪だなんて驕ったことは言わないけれど。東北の地にも中国を筆頭に外国勢力が触手を伸ばし始めていたものだから、やることは山とある。そうこうするうちに及川と岩泉は檻から出され、本家近くに住まいを与えられた。棲家が変わっても檻は檻。けれど取り巻く環境はがらりと変わる。その中で昔からひとつも変わらないのは、側に及川がいる、ただそれだけだった。
及川の祖父は青葉会の会長であり、その腹心溝口は組の最高顧問である。溝口は自らの組を持たぬまま会長に尽くす、この世界では至極珍しい男だった。その溝口が代行を務めていた及川の父の組、神城組。それを及川が任されたのは、ヤクザとして生きる術のほぼ全てを身につけたすぐ後のことであった。
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