「なあ、及川んとこの奥さん、結構酔ってんね?」
もう何度目になるかわからないバーカウンターへの避難中、及川とは反対向きの、カウンターを背もたれにして腰かける松川がテーブル席を眺めながら問いかけた。ちらりとそちらに視線を向けると、そこまで明るくはない照明の下でも頬をほんのりピンクに染めている岩泉の横顔が見て取れる。何が楽しいのか機嫌の良さそうな笑みを浮かべて、グラスの縁にちょこんとあの小さな唇を乗せていて。ああしてちびちびと飲み始めるのは酔ってきたサインで、前後不覚になることは滅多にないものの、少しだけ子供な岩泉が顔を覗かせる。それはいつもストイックな姿勢で仕事に向き合う岩泉とは違い、幼少期のはじめちゃんと呼んでいた頃の彼を彷彿とさせるものがあった。本当は誰にも見せたくないのだけど、言ってしまえばこの姿だけでなくてどんな岩泉も他人の目に触れさせたくはないのだけど、お前らが素敵だと密かに胸をときめかせている岩泉は何もかも自分のものなのだと見せつけたくもあり、心中はなかなかに複雑だ。
「すごく、可愛いよね。でも帰ってすぐ寝られると困るからもう飲ませないでよ」
「はいはい、わかってますよ。あれだってかなり薄めだから大丈夫だろ。本人気付いてないみたいだけど」
おかーさん偉いわあと自画自賛した花巻は、笑いながらミントやライムが入ったタンブラーにステンレス製の細身のペストルを突っ込んでいる。もはや誰が飲むのか、誰に飲ませようとしているのかを問いただす気にはなれなかった。
「お前の奥さんはいつからミント狂になったの。俺はもう飲まないからね。まっつんが飲めよ」
「それこそ可愛いだろ。けど何でハマったのかは俺にもわからん。しかもベランダで苗育て始めたからな。すごい勢いででかくなって怖い。おかげで我が家の晩酌はもっぱらモヒートですよ」
花巻の思考はたまに突き抜けていることがあるのだけど、松川も楽しそうなので、それはそれでいいのだろう。自分だって岩泉がパン作りに目覚めて連日牛乳パンが食事だったとしても構わない、はず。むしろ生地をこねる岩泉を舐めるように見ていたい。結局恋人のやることは何でも可愛いし、それを悦びに変換する回路は著しく発達しているけども、生憎と花巻は及川の恋人ではないわけで。モヒート地獄に付き合うにも限度があって然るべきだ。
「マッキー、そのモヒートはまっつんが飲みたくてたまらないってさ。残念だけど俺はゼクトで我慢するよ」
「いやいや、及川さん、心配無用。二杯作ってるから」
「……もう自分で飲んで」
煙草を咥え箱を放り投げてから火をつける。そして深く吸い込んだ煙もメンソール。どれだけ口の中を爽快にすればいいのだろうか。程よく回ったアルコールによるものなのか、くだらない話をしていると、不意にテーブル席から聞こえた女子の甲高い声にそのゆるい会話は中断された。
「えー!岩泉さんって結婚願望あると思ってましたー」
「私も!カズくんがよく及川さんと岩泉さんの話をするんだけど、何か岩泉さんは家庭的な子が好きそうだねって」
同僚の恋人だろう女子たちが、どうしてか岩泉の恋愛観だか結婚観だかに食いついている。ひとりは社内恋愛中で確か経理課にいて、もうひとりは大学生らしくたまに飲み会で顔を合わせる子だったか。別に恋人を連れて来てはいけないというルールはないのだから、女子がいても構わないのだけど。他の面子は各々盛り上がっているようで、そこかしこで楽しげな声が飛び交っていた。
「……俺は及川のめんどうみるので手一杯だから。あいつ、ああみえてひとりじゃなんもできないからな」
普段より幾分ゆっくりと話す岩泉の声はひどくやわらかい。左手で煙草を一本取り出しそれを咥えて火をつける、全て片手でやったのは右手にしっかりグラスを握っているからで。そんなにもグラスをテーブルに置くのが嫌なのだろうか。隣の松川がそれを見てくっと笑っている。
「でも及川さんはモテるから、尽くしてくれる綺麗なひととすぐに結婚できそうですよね」
「私もそう思う。でもお二人とも彼女できたって全然聞かないって言ってましたよ」
情報源のカズくんはといえば隅のソファで酔い潰れているし、もうひとりの彼氏である同僚も興味津々な顔をして話に相づちを打っていて、もうこうなってしまえば誰も彼女たちの好奇心を止められなかった。一応主役の及川がいないのを気にもとめないあたり、皆いい具合に酔っているのだろうということが窺える。
「……そうだな。あいつはつくされたがりなのかも。けど、ぐずでばかだからそこらの女じゃむり」
とうとう松川がのけ反る体勢でカウンターに乗り上げ、天井を仰ぎながら笑い始めた。その松川の顔を覗き込むように身を乗り出した花巻もぶふっと噴き出している。
「……まっつん……マッキー……あれは一体何なの」
「ふはっ!知らないし。俺が聞きたいわ。まあデレてるのは間違いないな」
当然のことながら及川と岩泉の関係を知らない女子たちは、岩泉が優しくて面倒見のいい男だといたく感心しているようだった。けれど内情をよくよく知っている松川たちには面白くてたまらない事態になっているらしい。及川もカウンターに肘をついて岩泉の横顔をじいっと眺めた。泥酔しているわけでもないのに、こんなにも愛らしい言葉を吐くなど珍しいこともあるものだ。
「そうなんですかー。及川さんって王子さまみたいだって皆言ってますよ。でも可愛いところもあるんですね」
「岩泉さんは結婚したくないんですか?」
二口しか吸っていない煙草を緩慢な動作で灰皿に捩じ込んだ岩泉は、既に氷も溶けて水っぽくなっているだろうグラスの中身をほんの少し口に含む。ややあってそれをこくりと飲み込んだのだけど、ネクタイをゆるめシャツのボタンをひとつ開けているためか、その上下する白い喉がやけに目についた。つと勢いよく喉元に噛みついてやりたい衝動に駆られる。
「俺は……べつに。あいつがけっこんしたいって言ってきたら、それからかんがえる」
「やだー、岩泉さんってほんとに優しいんですね!及川さんの幸せを見届けてから自分のことを考えるなんて」
女子たちは厚い友情にきゃあきゃあ騒いでいるけれど。
「はい、アウトー」
「つか、もう結婚しろよお前ら。何あのゴリラ、破壊力半端ないんだけど」
カウンターではテーブル席に聞こえぬよう潜めた声で話してはいるものの、松川たちは揃って肩を震わせながらそろそろ限界だと訴える。しかしながら限界なのはむしろこっちだと言いたかった。
「……もう帰っていいよね。お開きにしよう」
岩泉が何を思ってあんなことを言ったのかはわからない。けれど、あれは女子たちが受け取ったような意味ではなくて、及川と岩泉の間での話だということだけはわかった。結婚イコール生涯の伴侶だと言いたかったのだろうか。女子たちに洞察力がもう少しあったとして、自分たちの関係を疑われても構わないと思ったのだろうか。
少しだけつり上がった、他人にはその変化がよくわからないらしい猫みたいにくるくると表情を変える目は、いま、どこまでも凪いでいる。ぷるりとして存外やわらかな唇から紡がれた言葉は、沁み入るようにやさしく、突き破るようにはげしく、及川の何よりも深いところをぎゅうっと掴んで離さなかった。
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