待ち合わせ時間の五分前、きっともう来ているであろう人の名を入り口で告げると、すっかり顔見知りとなったマネージャーに笑顔で奥の席へと案内される。やわらかく散らした、オレンジに近い穏やかな明かりに照らされた奥のテーブル席は、さながら二人だけの隠れ家みたいで。
「お疲れさま。久しぶりだね」
「お疲れさまです。二週間ぶりですけどね」
くすくす笑う赤葦の向かいに腰を下ろしながら、つられた月島もふわりとやわらかな笑みを浮かべた。赤葦と会うときにはこのリストランテバールと呼ばれる洒落た、けれど気負う必要のない『La luna azzurra』で食事をするのが定番となっている。ドルチェの種類が豊富なことも、月島がこの店を気に入る要因のひとつであった。
「今日も可愛い月島に」
「……乾杯。……ほんと、毎回やめてもらえますか、恥ずかしい」
ジャコモ・コンテルノのバローロ、赤葦に薦められて初めて飲んだときには、正直こんなものに数万も払う人の気が知れないと、実際目の前にいたその気が知れない赤葦を眇め見たことも今となってはいい思い出だ。何度も飲むうちに、しっかりとした味わいにも関わらずこの店の料理にとても合っていることがわかったし、そして何より意外だったのは、ドルチェの邪魔にもならないということ。赤葦には笑われたのだけど、どれも全くもってあり得る組み合わせばかりで、ドルチェを食す一時も毎回の楽しみになっていた。
「どうですか?エージェント業は」
「ふふっ。エージェントって言ったらスパイみたいでかっこいいよね」
目指すはジェームスボンドだと無駄にきりりとした顔で言い切る赤葦を無視して生ハムを頬張る。赤葦は大学を卒業後、その語学力と交渉力を買われ、黒尾の元でエージェントとして国内外を問わず様々な場所での交渉事に赴いていた。スパイではなくとも、程々の熱さと何事にも動じない冷静さをバランスよく兼ね備えた赤葦にはぴったりな仕事だと心底思う。
「……代理人業は最近どうですか?」
「言い直さなくていいから。順調だよ。先週はオランダに行ってきたんだ。あ、お土産木彫りの靴なんだけど」
「……いりませんよ」
こう見えて赤葦は存外とぼけた男で、真顔で冗談とも本気ともつかないことをさらりと口にしては月島の毒舌と笑みを引き出すことがままあった。結局は大概が冗談なのだけども。けれど土産に関しては冗談でも何でもなく、一切使い道のないふざけた代物を行く先々で買っては、それを毎回爽やかな笑顔で押し付けてくるのだ。もらったものだからと部屋に置いてはいるけれど、そのうちおかしな土産に部屋を占領されるのではないかと戦々恐々の日々を送っていることをこの人はわかっているのだろうか。
始まりは真実の口の壁掛けからだったような気がする。それにツタンカーメンのレプリカに中から20個ほど出てくるマトリョーシカ、エッフェル塔の電気スタンドや何故か寝そべる自由の女神の置物。こういう類いがまだ他にいくつもあるのだ。
「木彫りの靴は両足がよかった?でも物に囲まれてると部屋に一人でいても寂しくないだろ?」
「お陰さまで。夜中に見る真実の口は格別で不眠を目指すにはぴったりですね。靴はどうかお気遣いなく」
ぴしゃりと言い切った月島を見つめる赤葦の眼差しはやわらかくてやさしい。そう、どうして赤葦がそんなものを買ってきては、月島を呆れさせ笑わせるのか、そして自分も忙しいだろうにその合間を縫ってはこうして食事に連れ出すのか、理由などとうにわかっていた。
「寂しいって顔に書いてあるけど、最近黒尾さんとは会ってる?」
「……先週、少しだけ」
そんなもの書いてたまるかと眉根を寄せて、手にしたワイングラスに視線を落とす。深い煉瓦色とも柘榴色とも言えるそれに思考がすうっと吸い込まれた。紅くて、暗くて……こわい。黒くて、寒くて……さみしい。覗いた己の深淵は底もひかりも見えなくて、それがまるで黒尾そのもののように思えて仕方がなかった。結局のところ、苦しかろうと悲しかろうと、この心には黒尾しかいないのだという事実が身を震わせる。同時にたぷんと揺れる赤に現実へと引き戻され、喉を塞ぐ想いを飲み下そうとグラスを傾けた。
「……お前は、本当に馬鹿で、可愛いね」
「赤葦さんって、たまに頭の悪いこと言いますよね」
この不毛で痛い、ぶちまけることも捨てることもできず日々刻々と大きくなる一方の、腹に沈み落ちた熱く重い塊に潰されてしまわぬよう、いつも赤葦はやさしく手を引いてくれる。その与えられるばかりのやさしさに、自分は一体何が返せるのだろうか。
与えられることには慣れていない。与えることにはもっと慣れていない。けれどひとはこうして生きていくのかと、今までは面倒でしかなかった人の心というものがどうしてかひどくいとおしかった。
知らなかった感情も想いも、何もかもをあのひとに教えられ、そのすべてを、あのひとに奪われる。
主はいまごろ醒めてか寝てか
思いだしてか忘れてか
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