くまさん

 朝、目が覚めた私はクローゼットに進んで扉を開いた。するとそこには真新しい服たちが仕舞われていて、私は思わず昨日の出来事を思い出した。ふたりの思うがまま、いたるところに連れていかれた。最初は気が進まなかった私も、ふたりの楽しそうな顔を見ていたら自然とそんな気持ちはどこかに飛んで行ってしまっていて、顔がほころんでいた。昨日は、とてもいい日だった。
 一階へと降りると、朝餉の香りが鼻腔をくすぐる。なんていい匂いなんだろう。ここに来てからというもの、毎日豪華な食事ばかり提供されるので、ずっとパーティをしている気分になる。でも実際はそんなことはなく、ここの食事はいつもこんな感じなのだと後々知った。そして本当はもう少し人数が多いことも。

「起きたか。パンでいいか?」
「うん。ありがとうございます、れいじさん」

 ここに来てから最初にみんなに言われたのは、「敬語は外してほしい」ということだった。ここにいた頃の私は、玉狛支部の人たちと分け隔てなく接していて、敬語もあまり使っていなかったらしい。勿論、りんどうさんや年上の人には使っていたようだが、れいじさんには敬語とそうじゃない口調の両方が混じった話し方をしていたと本人から聞いた。でも流石に最初からそれをするのはハードルが高いので、敬語から始めている。呼び方も、昔に私が呼んでいたものを教えてもらって、支部のみんなにはそう呼ぶように努めている。しかし、じんゆういちだけは呼称に二パターンあって、その中から気に入った方を使っている。

「あれ?じんゆういちは?」
「暗躍だな」
「うむ」
「ほう、あんやく」

 その言葉を聞いた私がぽかんとしていると、れいじさんが「裏で色々と動き回っていることだ。あいつの趣味だな」と言った。私はその意味を聞いてもいまいちピンと来なくて「ふうん」と気の抜けた返事をした。れいじさんがそれ以上このことについて触れようとしてこなかったことから察するに、彼以外の人間は彼——すなわちじんゆういち——が暗躍でなにをしているかなんて知らないし、あるいはわざと知ろうとはしていない、もしくは知りたくても彼自身が教えてくれないのだろう。私はこのことに首を突っ込むのは野暮だと考え、口を噤むことにした。

♢♢♢


 昼餉も食べた頃、玄関から何やら物音がした。どうやら、朝餉の会話に登場した人物が帰ってきたらしい。かの人物はそのままリビングに来て、何も言わずにソファーを陣取った。むむ、そこは今私が使おうとしていたのに。

「随分と遅いお帰りだったね」
「ん、ただいま、なまえ」
「うん、おかえり。じんゆういち」

 じんゆういちは私にへにょへにょな笑顔を向けたまま眠りに着いたようだった。私はこの表情を見ると、少し胸が締め付けられる。その理由が何なのかには、私はまだ気づかないふりをした。サイドエフェクトを使えばわかるのに、そうしてはいけないと私の脳内で危険信号が鳴る。それに、じんゆういちたちにもあまりその能力は使わないでとも言われたし。私は自分にそう言い訳して、痛みから逃げた。

「じんがかえってきたのか」
「うん。でもなんかじんゆういちの目元、暗いね」
「これはくまさんだな」
「くま、さん…?」

 私は咄嗟に昨日のドキュメンタリーで観た、黒っぽいながらも茶色い、肉食の、襲われたら即死であろうあの猛獣を思い浮かべた。そしてもう一度じんゆういちの目元を見た。ここにあの猛獣が…?いや、どう考えてもそれはないだろう。私はようたろうに「くまさん」とはなにか聞こうとすると、それよりも先にその問いに別の人物が答えた。

「くまさんっていうのは、寝不足でできるやつだ。肉食の方じゃない」
「え、あ、うん」
「…あと陽太郎、ややこしいこと言わないで、なまえが混乱してる」
「うむ、すまない」

 じんゆういちは目を擦りながら「くまさん」について教えてくれた。その流れで左手を目元に当てたまま、長く息を吐いた。

「ちょっとおれ寝るね、夕飯の頃には起きるから」
「あ、うん。おやすみ。教えてくれてありがとう」
「おやすみ。どういたしまして」

 じんゆういちと会話を交わした後、陽太郎と一緒に毛布を取りに行って戻ってきた頃には、彼は規則的な寝息をたてていた。私とようたろうはそっと毛布を被せ、物音を立てないように、口元に人差し指を当てながらそろりそろりと和かにその場を去った。