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 通された廊下にも、客間にも、見覚えがある。安室の部屋とは違う、確かに、それが平面であるときに見たことがあった。カーペットの敷かれた廊下も、飾られたトロフィーに大きなテレビ、きっと奥には本がズラリと並んだ書斎があるに違いない。
 ついていく背中をチラリと見遣る。背格好は良く、風貌の割に広い背中をしていた。セーターを着ているせいで肩幅は目立ちづらい。私よりずいぶんと上の位置にある髪の毛は、いくら見つめてもウィッグらしくなく、つい熱心に見つめてしまった。

 安室を主寝室に寝かせて、私はほっと息をついた。
 この後がどうなるかは分からないが、ひとまず彼を救うべき道が見えたことに安心したのだ。あのまま立ち往生していたら、一生の後悔を残すことになっただろう。安室の傷跡を見た男は、私のほうにゆっくりと視線を向けた。

 決して優しいものではなく、表情すら険しいものになっていた。薄っすらと開いた隻眼が私を睨んだ。正直ちょっとだけ怖かったけど、しょうがない。ここまで来てしまったので、引き返すことさえ許されないはずだ。

「――さて」

 彼は私のほうを見据えると、声のトーンを些か落とした。
 眼鏡の位置を軽く直してから、口元にゆったりと、わざとらしい笑みを浮かべる。画面越しに見たときは格好いい〜、くらいに思っていたが――実際に相対するとその体格の良さからか、それとも鋭い視線がそう思わせるのか、威圧感が強い。
「……少し部屋の前に出ましょうか」
 と、男は私の背を軽く押して寝室から遠ざける。扉を閉めると、彼はその扉に凭れるようにして立ちはだかった。

「君がどういうつもりかは知りませんが――ある程度のことを見越して話しましょう」
「は、はい……?」

 正直何がある程度なのかまったく理解はできなかったが、とりあえず相槌を打った。
 すると、彼はすっと長い指先で眼鏡を外した。先ほどまでレンズ越しにしか見えなかった、日本人らしからぬグリーンアイが鮮明にこちらを映した。
 こうして見ると、眼鏡って変装において偉大なのだと感じた。恐らく化粧では誤魔化せない深い掘りや、その瞳の色がレンズがないことで印象的に思わせる。


「俺のことを知っているな」


 亜麻色の髪が掻き上げられた。変声機こそ見せてはいないが、どうやら大分確信があるのだろう。その口調まで、先ほどとはガラリと印象が異なっている。
 ――驚きは、しなかった。
 当然だ。彼は、彼であり彼ではない。私は知っている。知っていて――安室をここまで連れてきた。男もまた、私の知る作品のキーキャラクターの一人である。

 彼の名前は沖矢昴。
 とある事件で燃えたアパートを切っ掛けに、工藤邸を仮住まいにしている大学院生。そして彼の本当の名前は、赤井秀一――安室と同じく組織を追う、FBI捜査官である。死亡偽装をして組織から身を隠していて、その事実を知るのは一部の人間のみだ。

 だからこそ、彼はこんなにもピリピリとしているのだ。
 しかしそれでも名乗り出たということは、きっと彼のなかで私が組織の一員には見えなかったのか、とっくに安室という男の素性に調べがついているからこそなのか。

 私は沖矢の言葉に一つ頷く。ここで嘘をついても意味はない。彼は「そうか」と無愛想に返事をすると、それから私の前に長い指を三本立てた。私はその指先を見つめて、首を傾げる。

「――治療はしてやる。俺も彼にはいなくなってもらっちゃあ困るんでね……。が、三つだ。条件が三つある」

 拒否権などないと言いたげに、彼は沖矢の穏やかな声色のまま、少々不遜そうな話し方をした。恐らく、彼の素はそちらなのだろう。なんだか優し気な見た目と声とは、チグハグな雰囲気がある。

「三つって……」
「君が何者であるかを話すこと」

 ピン、と一本の指が立てられる。
 ――それに関しては問題ない。別に、隠そうだなんて思っていたわけでもないし。彼もどこから自分の素性がバレたのか分からないままでは目覚めが悪いだろう。それすら話さないで、一方的に脅迫するつもりはない。
 私が頷くと、もう一本、今度は中指が立つ。

「沖矢昴と、以前から知り合いであると嘘をつけ」
「……えっと」
「ある程度の顔見知りであったから、頼ったということにしろ。優秀な男だから違和感は抱くだろうが、その場を流せればそれで良い」

 私、記憶障害設定なんだけど――。
 沖矢と知り合いだったら、可笑しくはないだろうか。まあ、良いや。ハロとの散歩中に会ったことにしよう――一応散歩コースで近くまでは通ったし、ある程度の辻褄は合うはずだ。
 もう一度頷けば、彼は最後に三本目の指を立てた。


「――最後だ。君の素性は安室透には話すな」



 私は、言葉に詰まった。はたして、今の沖矢のように確信めいた話をされて、私はそれを黙っていることができるだろうか。けれど、今は頷くしかない。いつかは彼から離れることになるのだから、大丈夫だ。

「……ただし、これは期限付きで良い。俺が良いというまでの間だ」
「理由とか、聞いてもいいですか」
「君は公安警察の関係者じゃあないからだ。まだ素顔がバレちゃ困るんでね」

 びくりと肩を震わせた。私が驚いて顔を上げれば、鋭い視線は先ほどのまま此方を見据えている。

「部下でも病院でもなく、わざわざ医者でもない俺を頼ってきた。罠なのか、まったくの他人なのか悩ましいが――お嬢さん」

 先ほどまで数字を示していた手が、片側のポケットの中に突っ込まれる。ツンと吊り上がった目つきを片方だけ開けて、沖矢はニヤリと意地悪そうに口元を笑ませた。それは、明らかに赤井秀一の表情であることが、私にも分かる。少し張った頬骨が片側だけ歪んだ。


「足音がずいぶん五月蠅い。尾行を得意とする公安でも、隠密が仕事の組織の奴らでもあり得ないんだよ」
「うるさ……!?」

 
 そ、そんなにバタバタ歩いてた!? いや、もしかしたらプロからしたらそうなのかもしれないが、今の赤井には明らかに厭味が篭っていた。『うるさい』の部分だけやけに強調して言ってきたし。
 
 彼はクク、と喉を鳴らしてから、主寝室の中へと踵を返していった。――本当に大丈夫だろうか。ていうか、赤井ってあんなに厭味っぽい性格だったか? 映画とかで見てたときは、どちらかというと落ち着いていてクールで、安室のほうが感情的なイメージだった。
 人間、会ってみないと分からないものだ――。なんて、漫画のキャラクターに会うシチュエーションなどないのだから仕方がない。

 だが、作中通り、彼は頭の切れる男だった。
 もっと、小説や漫画にあるような説明をする気満々だったのだ。何だったら彼の過去にまで触れて、ちょっと脅す――言い方が悪い――取引のような形に持ち込む気だったのだけど。私の思惑より、赤井の思考のほうが余程上回っていたのだろう。
 そんなことをしなくても、私が彼の予想の中のどれでもない『何者か』であることに気づいたのだ。

「やっぱ、頭良いんだなあ……」

 正直頭に関してはまるで自信がないので、先ほどの条件に私に不利な内容があろうが、一生気づけないと思う。でも、彼が治療すると言ってくれたのなら、もう安心しても良いだろうか。
 ようやく手の先にも血が巡ったような心地で、私は急に眠気が押し寄せてくるのを感じた。――治療って、どのくらいかかるんだろう。部屋の前でカーペットの上に座り込んでいたら、うとうとと眠気が押し寄せてきた。

 ――ああ、安室さんに何て言い訳しようか。

 あとで赤井に相談してみよう。そう思いながら、私は瞼を重たく閉じた。 

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Shhh...