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 ハロのいない朝は、いつもより少し寒く感じた。
 ニュースをつけたら今日は特段と冷え込む一日らしく、寒いのはその小さな温もりがないせいなのか、気温のせいなのかはイマイチ分からない。大きく伸びをしてから、冷蔵庫の中身を覗いた。

「……う〜ん」

 そして、唸る。以前買った冷凍食品も底をついてきた。
 とはいっても、もう一度安室に「買ってください」とお願いするのも気が引ける。既に部屋の中には彼の温情がたっぷりと詰まりきっている。いくら怪しいと思われようと、彼が私に生活必需品も食料も衣服も与えてくれているのは事実だ。
 初めのうちは甘えておこうと思っていたが、さすがに安室の世話になってもう一か月になろうとしている。
 申し訳ないという気持ちも半分、自分の好きな物を買えないという不自由さも半分。やっぱりどこかしら、稼ぎどころを見つけるしかないのか。一応、仮戸籍とやらはあるので、職にはつけるはずだ。多分。

「安室さんいるかな」

 念のため許可は取っておこう、と隣の部屋のインターフォンを押しに行こうとした。玄関を開けると、丁度インターフォンがすれ違いのように後方で鳴り響く。目の前には、玄関横のインターフォンに指を伸ばす安室の姿があった。
 これに関しては偶然の産物らしく、安室も些か驚いたように目を瞬いた。その手には、白いスーパーの袋があって、言うのが少し遅かったか――と思った。にしても、私より彼のほうがこの部屋の冷蔵庫事情に敏いとはどういうことだろうか。察しの良い人だ。

 ひとまず、彼を部屋に上げた。
 安室は丁寧に靴を揃えて、それから少しだけ気まずそうにスリッパを履いた――ように見えた。本当の所、どうなのかは分からない。いつもより、ちょっとだけその足に迷いがあるような気がした。

「……何かありました?」

 分からないが、そのままに尋ねると、彼は「いや……」と口籠る。そこでようやく、その視線が廊下を汚す血痕に向けられていることに気が付いた。一応濡れ布巾で拭いてみたのだけど、案外しつこくて落ちなかったのだ。廊下は綺麗に掃除されていたけれど、一体どうやったのだろう。

「あの、別に大丈夫だよ。幽霊の……とかじゃなくて、安室さんのだし」
「え? ああ……そうではなくて」
「ガラス割れててちょっとスースーするけどね。別に大した事じゃないもん」

 私は彼が気に病むまいとフォローしてみせたが、安室の表情は何とも言えなそうに晴れないままだ。買ってもらった冷凍食品を順に仕舞いながら、私は首を傾げた。

「えっと〜……」

 その理由が何度首をひねっても分からなくて、私はついに言葉を止めてしまった。もしかして、私はまた一つ疑いの種を蒔いてしまったのだろうか。まったくそんなつもりはないのだが、それが不安だった。いくらなんでもこんなに早く沖矢との約束を反故にしてしまうのは、不可抗力としても心が痛む。


「――……男が、上がると嫌かと思って」


 私が云々と考えている間に、言いづらそうに安室が固い口元を開いた。
 ニコニコとした笑顔はなくて、彼の顔にあるのはただただ誠実そうな、心の奥から心配するような複雑な表情だ。これが演技だとしたら、さすがだとしか言えない。
 その表情を見て、ようやく、彼が私のことを気遣ってくれているのだと気づいた。わざとらしくなく、僅かに顰められた片眉と、きゅっと引き結ばれた唇に、ちょっとだけキュンと胸が高鳴った。

「あ、えっと、ありがとうございます……?」
「そう思えば、君は全く気にしていないようで。忘れたほうが良いかとも思ったのですが」
「あはは……そのあとが衝撃的すぎて……」

 まず、こんな住宅街で銃をお目にかかることがあろうとは。さすが米花町と感嘆しても良いくらいだ。
 でも、確かに、私襲われかけたのだよなあ。その後にインパクトを奪われたこともあったけど、それ以上に、あのドアの先から見えた満月のような金髪が印象的で。綺麗だったなあと、そんな記憶の方が先に出てくるのだ。

「安室さんがいたから、怖くなかったです」

 私はちょっとだけほくそ笑みながら、安室のほうを見上げて告げた。
 私の笑顔を見て、安室は呆れたように、しかしほんのりと口元には笑みを浮かべている。あざとかったかな、なんて思うけど、安室は一度咳ばらいをしてから私の頭を軽くポンと叩いた。

「兎に角、これからは確認せずにドアを開けないこと」
「はーい」
「さっきもチェーン掛けてなかったでしょう」

 ギクリと肩を強張らせる。確かに、チェーンは掛けていなかった。私の顔を見て驚いた風だったくせに、そんなところまで視線が行き届いているとは。公安警察って怖い。

「それで、何か用事でしたか」
「あ、そうそう。安室さん、私バイトしたいんですけど」

 安室が淹れてくれたコーヒーを受け取りながら申し出ると、安室は「バイトですか」と復唱した。熱いコーヒーを冷ますついでに、冷蔵庫からミルクを取り出す。零れないようにマグカップの中に注ぐと、白い渦がじわじわとコーヒーの中へ混ざりあっていく。

「さすがに全部安室さんに払ってもらうの、ちょっと気が引けるし……。欲しいリュックもあるから。駄目ですか?」
「いえ、僕にとめる権利はありませんよ。でも、あまり遠い所だと心配ですね」
「父親かって」

 笑えば、安室もその表情を僅かに綻ばせた。
 二十九歳とは思えないほど若々しい顔つきだが、笑うとますます幼さが増す。やっぱり可愛い。たいへん眼福である。

「どこが良いかは決まってます?」
「ううん。一応コンビニとかファミレスとかならバイトしてたけど……」
「へえ。なら一つオススメのバイト先が」

 ――もしかして、ポアロかな。
 一応梓とは顔見知りになったことだし、あり得るかも。カフェでバイトとか一回やってみたかったから、嬉しい。ニコニコと「はい!」と返事をすれば、安室は胡散臭い笑顔を張り付けてポケットから名刺を取り出した。

 私の視界をチクチクと刺すような金色の名刺には、見覚えがある。

 そこには毛筆のような書体で、【毛利小五郎】と記されているではないか。私が「はい?」と目を丸くして聞き返すと、彼は当然のようにコーヒーを啜りながら言った。

「最近、先生もお忙しそうで。周囲の雑務をお願いできればと思ったのですが……」

 まさか! そんなわけがない。
 だって、人を雇うようなお金があるわけがないのだ。安室だって、授業料を払うという理由で探偵助手をしているわけだし――。そんな雑務一つに、私が雇われるはずがないのだ。私はぐるぐると頭の中を必死に回転させた。
 
 そう分かっていても、「そんなわけがない」なんて言っては駄目だ。私は安室が授業料を払っていることも、毛利小五郎にもそんな詳しくあってはならない。――きっと。元々隠す気もなかったので、改めて隠そうと思うと難しい。普通の人って、毛利小五郎に対してどこまで知識があるものなんだろう。お金がないことなんて、知らないよね? 有名だったりしないよね? 不安に思いながら私は空笑いした。

「あはは……でも私、そういうの苦手。漢字とか計算とか」
「そうかな、ならしょうがない」
「うん……」
「なら、ポアロなんてどうですか? ほら、梓さんとも話したことがありましたし」

 今なら分かる。彼はわざと、毛利小五郎の名前を出したのだ。
 思い返せば、私が彼に告げたそれは一番最初のこちらの世界≠フ情報だった。安室のことを思い出してすぐにその名前を聞いたから、つい知った風にオーバーリアクションをしたのを覚えている。

「こっわ〜……」

 何、この心理的サバイバル生活。彼が見目の良い男じゃなかったら家出しているところだ。ぽそっと呟いた言葉に、安室がニコニコと「何か?」と首を傾いだ。長い睫毛がパチ、と音を鳴らすように瞬いたのに、私は赤井の脅迫を思い出しながらブンブンと首を振った。


prev Babe! next
Shhh...