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「安室さ〜ん」

 インターフォンを押しながら、恐らくモニターを覗いているであろう安室と目線を合わせる。あれから三日間。梓に教えてもらったグラタンの成果を見せる時である。暫くすると玄関の扉が開いて、ハロが嬉しそうに尻尾を振りながら足元へ飛びついた。

「わー、ハロ! こんばんは!」

 ひょいっとグラタン皿を取り上げながら笑うと、ハロがまるで笑っているような口で一つ吠える。私は一通りハロに挨拶をしてから、視線を上げた。

「……うわ」

 そこにあった、疲弊しきっている男の顔を見て、ついそのままに声が零れた。
 安室がこの部屋に帰ってきたのは、私の耳が正しければ丸まる三日ぶりだと思う。一度だけ、ハロの世話をしにきたのか、例の風見という男とすれ違ったものの、それ以外に部屋から生活音は聞こえなかった。
 一体何をしてきたのかは分からないが、大きな目の下には褐色の肌でも目立つほどの隈がクッキリと浮かんでしまっている。髪の毛も、毛先がパサパサだし、唇は乾燥している。あれほど欠点が一つと見当たらない美形だというのに。

「もしかして、寝てた?」
「いいや、大丈夫です……」
「ごめん、寝てきて良いよ。私帰るね」

 浮かれてきてしまった私が悪かった。仕事終わりで、そりゃあ疲れているだろう。彼の仕事は気を張るものなわけだし。虚ろそうな返事を聞いて踵を返す。グラタン、どうしようかな。一人で食べても良いけれど、さっき食べちゃったし。明日の朝に温めて食べよう。

 ぐ、と大きな手が手首を引いた。

 その綺麗な顔とは裏腹に、ごつっとした指の感覚があった。私の手首を軽くぐるっと一周する手が、私の行く手を阻んでいる。驚いたままに安室のほうを見上げれば、彼も驚いていた。
「なんで安室さんもビビってんの……」
「え? ああ――。ちょうど、お腹がすいていたので。それ、僕にでしょう」
「まあそうなんだけど……」
 彼が良いと言うのなら、良いのだけど。疲れた彼にさらに気遣わせるような真似は本意じゃない。私といるときは安室透でなくてはいけないのだし、疲れるのではないだろうか。少し悩んだけれど、ここで問答を繰り広げるのも時間の無駄な気がした。

「眠かったら言ってくださいね。すぐ帰るんで」
「どうも。ふあ……」

 ――珍しい。
 あの安室が、私の前では常に安室透≠ナいる彼が、今だけは素直に欠伸を漏らしている。よほど疲れが溜まっているんだなあと思いながら、ダイニングテーブルに向かった。シンプルなウッド調のそれは、彼の部屋にお邪魔するときの定位置だ。

「グラタン、梓さんですか」
「すごい、よく分かりましたね」
「ふふ。バイトが順調そうで何よりです」

 梓直伝のレシピだったが――もしかしたら、安室が発案者だったりするのだろうか。あり得るかもしれない。だとしたら、恥ずかしいことをした。ぽりぽりと側頭部を掻きながら縮こまって座っていると、安室は先ほど温めたばかりの器からラップを外した。湯気が、ほわっと立ち上る。

「良い匂いです」
「本当? まー、すっごい簡単なレシピだったんだけどね……」
「そんなところで卑下しなくとも。素直に頑張ったから食べて欲しい、で良いんですよ」

 ふうふうとグラタンの湯気を冷ましながら、安室は小さく笑った。そういうところをサラリと告げてしまうのは、彼の気障っぽいところだ。ぱくりと、その意外にも大きな一口を頬張ると、彼は口から湯気を零した。ごくん、喉が鳴る。それから、長い溜息。

「胃に染みる……」
「わあ〜、すごい社畜っぽい発言」
「ははは。まだ社畜の何たるかも知らないでしょうに」
「えぇー。今はバイト戦士やってるもん」

 そう言えば、彼は二口目を頬張りながら「そうそう」と思い出したように言った。私が首を傾げると、グラスに注がれた水を呷る。

「手続き、しておきましたよ」
「……? あ、施設? 空きがあったんですか」
「いえ、そちらはまだ。ほら、行きたいと言っていたじゃないですか」

 安室は皆まで言わず、ぱくぱくと食を進めていく。多分、本当にお腹が空いていたのだと思う。イケメンは食べる姿も花だなあ、なんて眺めながら、私は自分の発言を思い返した。行きたいと言った――。どこかに行きたいって言ったっけ。しいていうなら、テーマパークとか行きたいな。
 考えを巡らせること数分、グラタン皿の中身が三分の一になったとき、ようやく一つ心当たりを見つけた。あっと手を叩いて、私は声を大きくする。

「学校!!」
「おや、気づかれちゃいましたか」

 安室はクスクスと上品に笑って見せる。純粋に嬉しかった。学校、学校! たった一か月と少しのことだというのに、随分前に通っていたものに感じる。編入手続きとかって、そんな簡単に済むことなのだろうか。もしかして、彼が忙しくしていたのはその所為――?
 嬉しさと同時にちょっとした罪悪感がこみ上げた。安室は最後の一口を頬張ると、手を合わせる。

「言っておきますが、帰ってこなかったのはそれとは別件です」
「あ、そうなんですか」
「学校の編入手続きに丸三日掛かっちゃ困るよ」

 苦笑を浮かべた安室に、それもそうかと安堵した。ならば、彼が忙しかったのは仕事のせいか。前々から一週間だの、三日だのと帰ってこない日があるので、本当に忙しいのだろうと思う。

「まあ、こっちもひと段落つきそうなので、あと少しです」
「良かったですね。えっと、どういう事件の依頼なんですか?」

 必死に安室透の職業を思い出しながら尋ねると、安室は持っていたスプーンを、静かに下ろした。怪我を負っていただろう腕を庇う仕草は、もうしていない。

 その時に思った。以前対峙した赤井秀一に睨まれた時よりも、見上げた青色が静かに据わっているのが恐ろしかった。剥き出しにされた敵意よりずっとずっと、押さえた怒りが瞳を燃やしているみたいだ。

『知ってた? 炎は赤色より青色のほうが温度が高いんだ』

 そう言っていたのは誰だっけ。そうだ、あの青年だ。物をよく知った青年だった。何故、彼のことを思い返したのかは分からないが、確かにその瞳は恐ろしいほど熱い。

 怒りも敵意も腹の中に収めたような表情で、彼はニコリと穏やかに微笑んだ。
 例えば、江戸川コナンが毛利蘭に関することだけその本心を隠せないように、彼もまた完璧な安室透の中に、零れるほどの想いがあるらしい。表情だけは、完璧な微笑だったと思う。完璧すぎて、人間味が薄れるくらいに。
 そう思うのは、私が彼の素性を、過去を聞きかじっているせいだろうか。部屋の電球が、一つ切れてしまっているせいだろうか。


「――とある青年の、敵討ちの依頼なんです」


 私は、それを聞いて息を呑むことすらできなかった。テーブルの上で組まれた指先。
「そ、それって探偵の仕事なんですか?」
「確かに。まあよくある話ですよ、痴情のもつれだったりで脅迫の種を握りたいだとか」
「なるほど。帰ってきたってことは、もう握っちゃったってこと?」
 あはは〜と軽く笑いながら尋ねると、安室は口元に人差し指を押し当てた。穏やかな、静かな微笑みだった。

 私は知っていた。彼がこの先何をするのかを知っていた。
 けれど、何かできることはなかった。というか、したところでどうにかなることもない。原作通りに進めば悪いことにはならないし、死人がでることもない。安室にも赤井にも危険が及ぶわけじゃない。

 ただ、考えたことはなかったから。
 私がテレビや漫画でそのシーンを見る時には、安室という男は敵側に立っていた。彼の確信を持った詮索と陽動を、主人公たちが華麗に回避するのだ。その時の彼が、どんな感情だったかなんて――思ったことも、なかったから。
 
 だからどうするべきか分からなくて、私はそっと足元にいたハロの毛並みを撫でていた。原作を知っているからといって、何だというのだろう。目の前の男に、少しの同情心が湧いてしまうだけだった。


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Shhh...