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「初めまして、白木芹那です」

 黒板の前に立って、私はニコっと口元を笑ませた。
 ブレザーはかっちりしていて似合うか不安だったけれど、これはこれで案外良いかも。今日は初日だから、なるべく明るく見せようと思って、髪の毛もポニーテイルに括ってきた。BBクリームオッケー、ナチュラルな透明マスカラも、ほんのりと色付きのリップクリームも。白いスニーカーソックスと、サブバックはバイト代で返す約束で、例のリュックサックを買った。


 我ながら、中々に可愛いんじゃないか。この着こなしは。
 ご機嫌に指定された席に着いて、新しい筆記用具を広げた。安室に「学校に行ける」と告げられたのは、今から一週間と少し前のことだっただろうか。妙な季節の転校生ということもあり、少し心配していたのだが、それはさすが――例の帝丹高校といったところだろうか。
 
 そう、安室が用意した学校は、毛利蘭たちの通う帝丹高校だった。簡単な入試試験は解いたものの(まったく手ごたえはなかったが――)、もしかしたら安室の手で通うことは決まっていたのかもしれない。

「あ、教科書」

 つい思うままに言葉が零れた。
 まさしく転校生らしいとも言える言葉だったと思う。あたりを見回して、私は丁度隣にいるショートヘアの女の子に声を掛けた。猫っぽい吊り目がこちらを振り向く。――どこかで見たことあるような。気のせいだろうか。

「ショートヘア可愛いね。私も短く切っちゃおうかな」
「よく男っぽいって笑われるわ。教科書でしょ、見る?」
「うん!」

 ちょいちょいと手招かれて、私は机を彼女のほうへと寄せた。絶対赤リップとか似合うだろうなあ、と想像のできる、涼し気な美人だ。そのニっと得意そうにする笑顔も好感が持てた。

 授業の内容は、さっぱり分からなかったけれど、隣の少女の文字がその姿のように凜としていることだけは確かで、私はその文字の羅列を眺めながらぼんやりと安室のことを考えていた。

 
 ――沖矢の言う通りにしていて良かったと、今は強く思う。
 安室のあの話を聞く限りは、恐らくだが緋色の帰還以前なのだろう。安室透が、沖矢昴の素性を暴きに工藤邸に乗り込む話。結局その時は江戸川コナンと赤井秀一、そして工藤夫妻の協力によって欺かれてしまうのだけど。
 赤井が、確か「組織に赤井秀一の身柄を差し出すつもりだった」と言っていたような気がする。万が一にも沖矢=赤井だという確証をつけていたら、問答無用で沖矢昴をひっ捕らえていただろう。

 本当に、原作の知識なんて今となっては余計なものでしかない。
 こんなものがなければ、怪しまれても文字通り記憶障害で済んだだろうし、知っていたところでその流れを変えることに意味があるとは思えないからだ。だって、きっと名探偵コナンは紛れもなく『ハッピーエンド』のはずで、『少年漫画』なのだ。
 一つ一つの事件のあらましを覚えているわけでもなし、私が覚えているのなんておおよそのキャラクターと、ミーハーな心で追いかけていた安室・赤井・キッド・服部あたりの関わる話。
 そんな曖昧な知識でハッピーエンドへの道をひん曲げるなんて、余計なことと言えず何と言おうか。

 そりゃあ、あの時沖矢昴を頼ったように、たまには役に立つ知識もあるかもしれないけどさあ――。

「白木、おい、白木〜」
「あ、え? はい!」
「大丈夫かー」
「うん、大丈夫でーす」

 聞かれるままに返事をしたら、担任の教師は「じゃあ早くプリント取ってやれ」と笑った。目の前には次の授業で使うらしいプリントが、大人しそうな青年の手からぶらさがっている。
「わ、ごめん!」
 私は慌ててプリントを取って、それを背後へと回す。クスクスと隣の女の子が可笑しそうに笑った。目が合ったので、軽く肩を竦めておいた。
 考え事をしている間に授業内容は終わっていたようで、号令がかかった。教師が私のほうに向かって声を掛ける。

「白木、あとで保健室来なさい」

 その言葉に、はてと首を傾げる。
 別に体調が悪いわけではない。まあ、転入したてなのでとりあえず頷いておこう。身体測定とか、そういうのあるのかも。猫目の女の子は、私のほうを向いて少し考えたようにしてから言った。

「送ろうか。場所分かんないでしょ」
「良いの、ありがとう! えっと……」
「数美で良いわ。さ、行こ」

 手招かれるままに、私は彼女の後ろを追った。
 ――塚本数美、と言うらしい。どうにも見たことがあるようなないような、という曖昧な記憶だが、もしかしてアニメにもチラリと登場したのかもしれない。兎に角、今の私にとっては大切なクラスメイトの第一号だ。

 帝丹高校の中身は当たり前かもしれないが、一般的な高校と変わらない。教室があって、廊下があって、特別教室があって。その間を同い年くらいの少年少女たちが屯しながら歩いていく。
 あの毛利蘭や鈴木園子、世良真純もその中の一人でしかなくて、本当に高校生なんだなあと思った。私が前の世界でいる時の同級生たちと、何ら変わらない姿で歩いていたからだ。

「――……」

 なんだか、それが不思議な気持ちだった。
 彼女たちは、アニメの中のように鼻が尖っているわけでもないし、目があんなに大きくてキラキラと輝いているわけでもない。特徴だけはそのままに、でも確かに私と同じような人間の姿をしていた。高校生の姿をしていた。

「毛利と知り合い?」

 声を掛けてきたのは数美だった。私は慌てて首を振る。
「ううん、ちょっと見たことあって」
「そうなんだ。いい子よ、強いしね」
 ――存じております。私は「へえ」と相槌を打った。長い髪が、歩くたびにふわっと靡く。綺麗だなあと思った。

 毛利蘭のことを伝え聞いているうちに、保健室の表記が見えた。
 数美は待っているというので、言葉に甘えて「お邪魔します」とその扉を開けた。部屋の中にいたのは一人の白衣を羽織った男で、彼は私のほうを見上げると「白木さん?」と緩やかに首を傾げた。

「はい。白木ですけど……」
「良かった。少し座ってください」

 丁寧な、低い物腰で喋る人だった。
 安室と同じような言葉遣いだけれど、安室とは話し方が違う。というか、やっぱりこの人にも見覚えがある気がする。いや、かなり。一度そうだと思うと、心に芽生えた確信はジワジワと大きくなった。
 彼の前に用意された椅子に腰を下ろせば、彼はにこやかに微笑んだ。お人好しそうな、柔らかな笑い方だ。


「初めまして、校医の新出です。君の記憶のことは掛かりつけ医から聞いているよ。学校のなかで何かあれば、僕がサポートすることになるので、今日はその挨拶に来ました」


 ――新出先生だ! やっぱりそうだった。
 にこにこっと眼鏡の奥の垂れた目つきが、私を安心させようと細められている。柔らかなブラウンの髪も、おじさんっぽいタートルネックの色も、なんだか全体的にふにゃふにゃ〜とした雰囲気の人だった。

「……あれ?」

 新出先生って、ベルモットの変装だったんじゃないっけ。
 もう、元に戻ったってこと――? 駄目だ、全然記憶がない。私はこちらを見て微笑む彼の頬に手を伸ばし、軽くキュっと抓ってみた。

「あ痛っ」

 肉の感触。ぎゅむっと抓られた頬を押さえて、新出は驚いたように私を見た。キッドとかの変装って、こうやって確かめてたよね、確か。じゃあ、やっぱり今の彼は新出本人なのか。

「ごめんなさい。ゴミがついてて……」
「本当に? ありがとう」
「優しそうな先生で良かった〜。よろしくお願いしまーす」

 うん、と微笑む新出は、少し不思議そうにしながらも穏やかに頷いた。それから、頬を擦ってクスクスと可笑しそうにしていた。

「ああ、ごめんね。知り合いの坊やと同じようなことをしたから、思い出して笑ってしまって……」

 その坊やって、間違いなくあの坊やのことじゃあないだろうか。しまった、余計なことをしたなあと、十秒前の自分を責め立てた。本当に、知識ってあればあるだけ余計な選択肢を増やすのだ。


prev Babe! next
Shhh...