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 階段を駆け上がって、勢いよく扉を開けた。
 この後夕方からバイトを入れていたのに、つい数美と話し込みすぎてしまった。制服をぽいぽいと床に放って、スウェットとスキニーに着替える。ショート丈のジャケットを羽織って、ポアロまで走った。

 冷えてきた空気に、息が切れる。喉の奥に冷たい空気がひゅうひゅうと通っていくけれど、それが嫌いじゃなかった。近道しようと思って、路地裏を抜けていったら、曲がり角で買い物帰りらしい安室と鉢合わせた。

「お帰り。五分前、間に合いましたね」
「わー、ごめんなさい! 良かったあ」

 ほっとして、ドアを開けてくれた安室に続き店内へ入る。こちらを振り向いた梓が、にこやかに私と安室を迎えた。
「ありがとうございます。芹那ちゃん、お帰り」
「いえいえ、ディナーに材料不足じゃ困りますからね」
 ――学校に通うようになってから、少しだけ変わったこと。
 夕方にポアロに寄ると、必ず「おかえりなさい」という言葉が私を迎えること。こっぱずかしいような気持ちになる。いやいや、ここ家じゃないし。そうは思いながら、嫌ではなかった。
 むずむずとして――けれど、「ただいま」という言葉だけは自然と口を突いて出てこない。それでも気にしていない様子で、安室と梓は必ず私を「お帰り」と迎える。彼らとお揃いのエプロンに首を通しながら、そのむず痒さを接客で発散した。

「へえ、高校ってそんな難しいことするんだっけ」
「そうなんですよ〜。もう頭がパンクする」
「ふふ、でも楽しそう」
「楽しい! 友達もいっぱいできたし……今度ショッピングに行っても良い?」

 ちらりと皿を洗う安室のほうを振り返ると、彼は苦笑いしながら「ご自由に」と言う。確かにそうなのだけど、一応現在の保護者欄には彼の名前が入っているので、確認をと思ったのだ。

「はー、楽しみ。バイト代も入ったし、寒くなるからマフラーも欲しいな」

 トレイを持ったまま機嫌よくカウンターに凭れかかる。
 今は客足もまばらで、もう少ししたらラストオーダーの時間だ。梓もペンを口元に当てながら次のメニューを考えていたり、安室もいつものようなテキパキとした手早さはなく、緩慢に泡を流していた。

「ああ、そうだ。梓さん、僕来週はお休みをいただいているので」
「はい。シフト確認済みです! 芹那ちゃんもいるし、よっぽど大丈夫かな」
「また探偵のお仕事ですか?」

 言えば、安室はほんのり固い笑顔のままに頷いた。本当に難儀な仕事だ。まずあのマンションが彼の本当の自室なのかは定かじゃないが、それにしても三日や四日はザラに空けたり、かと思えば部屋に篭りきりだったりする。体を壊さないと良いのだけど、と思った。


 その後店の閉店作業を終えてからは、安室と一緒に歩いてマンションまで帰った。今日は車を置いてきたらしい。申し訳なさそうにする安室に「歩くの好き」と笑った。これは割と本音で、母親は車を持っていなかったので、車移動より歩きのほうが安心する。

 夜の住宅街は、静かで暗い。
 歩いていると、時折走る車の音と、住宅から漏れる笑い声や生活音だけが空気を震わせていた。等間隔でポツポツと立っている街灯が、私たちの影を色濃く落とした。こうやって歩いていると、私の住んでいた東京都変わりはないように思えた。

 少しだけ広い歩幅は、ちょっと進むと私と歩調を合わせるように速度を緩め、また速くなっては緩まり、という動きを繰り返す。もともとは歩調が早いのだと思う。安室らしいと思った。

「……学校は、どうだい」
「めちゃ楽しいです。本当にありがとう、あとちょっとだけど、通えて嬉しい!」
「なら良かった」

 微笑んだ鼻先が、街灯に照らされた。以前より、また少しだけやつれただろうか。顔色が悪く見えた。その理由が透けて見えるような気もしたけれど、やっぱり心配で、つい口に出してしまった。

「体調大丈夫なんですか?」
「ああ、平気だよ」
「腕のこともあるし、良い先生にみてもらうとか。新出先生、本当に優しくて良い先生だったよ」
「新出――ああ、校医の先生でしたか」

 転入して一週間ほどは、毎日様子を見るために新出は学校に顔を出していた。会うたびに、穏やかな空気で雑談をするだけだけど。私の体調に変化がないのを確認すると、「このあと午後の診察があるから」と去っていくのだ。
 
 そういえば、安室は新出のことを知っているのだろうか。だとしたら、あの頬を抓ったことを知られないと良いのだけど。でも、ベルモットはもう変装していないはずだし。あの時に関わったのはジョディだったはずだから――。
 あれ、ジョディはFBIだから、バレても良いのか。でも、今は緋色の前だから赤井のことは知らなくて、多分私の情報も共有されていないから――。

「何、難しい顔してるんです?」

 ふ、と笑いながら、安室の指先が私の眉間にぎゅうと押し付けられた。
 それで伸びた皺に、私は深く皺を刻んでいたことをようやく自覚した。小麦色の肌はどうしても少し暖かそうなイメージがあるけれど、私の額よりずっと冷たくて、皮膚は固かった。

「あ、ううん。ちょっと授業で分かんないとこあって」
「そう」

 穏やかに、緩やかに指先が離れていく。
 安室は、私のことをどこまで疑っているのだろうか。こうして見ていると、本当に笑っているように見えるし、ある程度の心配もしてくれている。用意した食べ物も食べてくれる。部屋のなかにも、最近は待ち時間なしで迎え入れてくれるようになった。

「分からないなら、聞いてみれば良いのでは? 僕でも、その新出先生でも良いでしょう」
「ええ〜。私馬鹿だもん、どうせ聞いても分かんないって」

 そのまま雑談を続ける安室に、私は手を振りながら笑った。
 自分は頭で生きるタイプの人間じゃない。赤井や安室とは違うのだ。顔は母親に似て結構可愛く生まれたと思うし、それなりに人から好かれれば良いかなあと思っていた。だって、勉強したって分からないし、大学に行けるわけでもないから。

「……それは、癖かい?」

 マンションの階段を二人で上がりながら、安室はその透き通るような瞳で私の方をチラと一瞥した。「癖って、何が?」私は首を傾げる。別に、癖と言えるような癖もないつもりだったので。気づかないうちに貧乏ゆすりとかしてたのかな。
 
「一度自分を下げるだろう。いつも。下手だから、馬鹿だからって」
「下げる……つか、本当のことだから……?」

 確かに、よくいうかもしれないけど、別に下げているつもりはない。
 事実馬鹿だし、料理は下手だし。あえていうなら相手に対する保険のようなものだ。安室は私の頬を軽く抓った。ふに、と皮膚が伸びる。

「な、なに」
「それは下手で馬鹿なんじゃなくて、経験がなくて教えてもらっていないだけ。今から知れば良いことです。だから、わざわざ卑下しなくてよろしい」
「……それとこのほっぺ関係ある?」
「おや、バレましたか。つい、お饅頭みたいで」

 むにむにと頬の感触を確かめるように親指を人差し指が動いた。――失礼な。そうは思ったけど、どうしてか嫌じゃなかった。赤井の時とは、何かが違った。腹が立たなくて、ふにふにと弄られる頬が満更でもなく緩んでしまった。
 何でだろう。安室の顔つきが好きだからかな。なんて不純な考えをしながら、一応形だけ「誰が饅頭ですか〜」と怒っておいた。結構棒読みになっちゃった。


「僕は好きですよ」


 サラリと、眩いほどの金色が揺れて首が傾いた。私はそれを見上げて、一瞬言葉を奪われてしまった。すぐに「君の作るグラタン」と付け足された言葉にさえ、胸がキュンと締め付けられるのだった。美形効果ってすごい。


prev Babe! next
Shhh...