18

 土曜日、久々にバイトも入っていなくて、私はゴロンとソファの上に転がった。安室は、偶にはこういった休息の日も大切だというが、何せ部屋で一人なので。やっぱり着替えて、軽く散歩でもしようか。最近はバイトや学校の往来でこのあたりにも慣れてきたし、探索するのも良いかもしれない。

 そうと決まればと、私はクローゼットに掛けていた以前の制服に腕を通した。帝丹高校の制服も嫌いじゃないけど、偶には着てあげないと。高校が過ぎたらただのコスプレになってしまうんだから。
 髪の毛は緩くミックス巻きにして、耳の上で友人に貰ったピンを用いて軽く留めた。ボアアウターを羽織ってスニーカーを履いている時に、インターフォンの音が鳴った。靴ひもを結びながら顔を上げると、「安室です」と向こう側から声がする。

「安室さん、おはよー」
「おはようございます……どこかに出掛けるところでした?」
「ちょっと散歩に行こうかと。ハロおはよー」

 恐らく朝の散歩帰りなのだろう。安室はトレーニングウェアのパーカーを羽織っていて、この季節にしては薄いシャツを隠すようにジッパーを閉じていた。ぴょんっと飛び跳ねるハロを抱きかかえた。温かい。

「なら丁度良かった。誘いにきたところなんですよ」
「え? どこか連れてってくれるんですか?」
「まあ、昼食でもどうかと思って」
「行きます!」

 ぱっと顔を輝かせて頷くと、垂れた目つきが僅かに瞬いた。どうやらハロも一緒みたいなので、オープンテラスのカフェとかだろうか。踊る心を押さえられず、それはもうご機嫌に安室の後ろについていった。

 ハロを抱えながら座席に乗り込むと、何かが太ももの裏側にチクリと食い込む。足を上げてみると、そこにはキラリと金属が反射して光って見えた。指で摘まんでみる。小ぶりなピアスだ。高そう――多分そのあたりのプチプラ品じゃなくて、きちんとしたジュエリーだった。

「……浮気者」

 私は揶揄いついでに、わざと拗ねながらピアスを安室のほうに突き返す。彼は一瞬強張ってから、はあと重たいため息をついていた。
「失礼、この間知り合いを乗せたもので」
「彼女だ〜」
「違います」
 キッパリと言い切られてしまった。安室の助手席、というとベルモットのようなイメージがあるけど。他の組織の人や仕事の同僚だってあり得るか。
 高そうなピアスを安室へ返却してから、シートベルトを締める。今日は日もでていて、風もほどほどに心地よかった。窓が薄っすらを開けられて、その隙間からふわりと澄んだ空気が流れていく。

 安室の隣にいるのは、なんだか落ち着く。
 ――そう思うのは、あまりに呑気だろうか。それとも、安室透はやはり相当人の懐に入り込むのが上手いのだろうか。どちらにせよ、彼の隣にいると、少し眠たくなってくる。見た目良し、セラピー効果もあるなんて、お得だ。


―――
――



 そう思っていたのは、遠い昔の話だった。
 やっぱり彼は非情な男だ。鬼だ。人間じゃない! 私は腕を引っ張られるままに、体重を後ろにかけ続けた。第一犠牲者――ハロも私を応援するように服の裾を噛んでくれている。安室はそんな抵抗些細なことだとでも言いたげに、ひょいっと私の脇の下に手を入れこんで体を起こしてしまう。

「さあ、行きますよ」
「嘘つき! ご飯って言ったのに〜!」
「もちろん。これが終わったらね」
「聞いてない!!」

 声を荒げると、安室はニコっと笑って「言ってませんから」と告げた。この際みっともないと思われようと構わない。私にとっては、醜聞より命のが大切なんだ。軽々と持ち上げられた足をパタパタと動かしながら、しかしそんな抵抗も虚しくドアを潜った。まるで首根っこを掴まれた猫みたいな体勢だ。

「おや、おはようございます」

 そんな情けない体勢のまま、私はホワホワとした雰囲気の前に差し出された。ツンと消毒薬の匂いが鼻をつく。眼鏡の位置を少し直して、新出はカルテに目を通した。そしてあれよあれよと聴診や視診を受け、安室に腕をガッチリを固定された。

「……あの、そんなに抑えたら痛いのでは?」
「はは。大丈夫ですよ、先生。やっちゃってください」
「悪魔! 新出先生、この人悪魔なんです……」

 新出は苦笑しながら、箱から細長い形状の注射器を取り出して、先端のキャップを外した。――そう、連れてこられたのは病院だ。

 最初の被害者はハロだった。
 動物病院で、キャインと悲痛な声を漏らしながら震えるハロを撫でていたのも束の間。次に向かったのは新出のいる病院で、私はぎょっとした。まさかと安室を振り返ると、彼はにこやかに「予防接種です」と言った。

 痛いことが嫌いだ。
 そんなの人間全員だろうと思うかもしれないが、兎に角嫌い。自慢じゃないが小学生のころ、待合室から全力で逃走して母親から小一時間追いかけっこをしたことだってある。こんな年齢になって注射との縁も切れたと思っていたのに、まさかこんな無理やり連れてこられるなんて!


「大丈夫、怖くないからね」
「こわいです……」
「まだ消毒もしてないでしょう」

 
 ああ、駄目駄目。あの消毒で腕を擦られる瞬間さえ苦手だ。鳥肌が立つ。唸りながら、薄っすらと眼を細める。見るのは怖いけれど、見えないのも怖い。ヒヤリと冷たい感触が腕を撫ぜる。それから間があって、案外太い指先が当てられた。

 その瞬間だ。

 ふにりと、頬が摘ままれた。間抜けに「ふあ」と鼻から抜けるような声が漏れた。腕に触れているものではない、ちょっとだけ冷たい指先だ。この間も、同じことをされた覚えがある。
「安室さ……」
 ――ん、というタイミングと被さるように、皮膚にじくりと痛みが滲んでいった。思わず体が跳ねそうになるのを、反対側の手が押さえた。

「はい、おしまいです。もう良いよ」

 新出がにこにことしながら腕に絆創膏を貼るのを見守りながら、私はぱっと背後を振り向いた。振り向いた私に気づいたのだろう、安室はちょっとだけ肩を竦める。

「……い、いつもより痛くなかった」
「実際、そんなに痛みはありませんよ。いつもそうやって、注射にだけ集中してるから痛く感じるんです」

 ぽんぽん、と大きい手が私の髪を撫ぜた。そういうこと――? 疑問に思っていると、安室は笑いながら「あとは先生の腕ですね」と言った。

「先生、ありがとうございました」
「いえいえ。よく頑張ったね、お大事に」

 子どものように褒められて、でも悪い気はしなかった。車に戻るとハロが私のことを心配そうに見つめていて、私はその体をもみくちゃにしながらその名前を呼んだ。まあ、痛かったけど。何ならまだ痛いけど。


 運転席に乗り込んだ安室に、私は不満げに顔を顰めた。
「今度からは行くときは言ってくださいね」
「できる限り。美味しいものでも食べに行きましょう」
 スマートフォンに指を滑らせる横顔を見つめながら、私は悩んだ。前までなら、ファストフードだってなんだって良かった。けれど、最近安室のせいで少し舌が肥えてしまったから。

「……パフェが食べたいです」
「デザートかあ、ハロも一緒に入れるところだと良いんですが」
「安室さんの作ったパフェが良い」

 なんだかんだと言って、彼の作るものは全て美味しいのを知っていた。デザートも、ご飯も、そのせいで最近食べ過ぎているくらいだ。私はまだ痛む肩付近を軽く擦って、ちらりと安室の方を見上げた。

 彼は可笑しそうに笑ったけれど、嫌だとは言わなかった。エンジンを掛けながら、笑い声混じりに言うのだ。
「なら、スーパーに行きましょうか」
 私も、ハロも、その言葉に勢いよく頷いた。


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Shhh...