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「芹那ちゃん、こっちこっち!」

 大きく手を振る、ベージュのニットワンピース姿。私は改札前の彼女の元に駆け寄った。いつものバイト姿よりも、化粧がしっかりとされているせいか、華やかな印象を受けた。梓は私の姿を見ると、まるで妹か娘かのように頭を撫ぜた。

「髪の毛可愛い! 自分でやったの?」
「うん、いじるのは好きなんだ」

 編み込んだサイドを見せるように顔を斜めにすると、梓はもう一度にこやかに「可愛い」と繰り返した。それが嬉しくて、張り切ってグラデーションにしたリップが綻ぶ。
 ――こんなことをしていて、ポアロは大丈夫か。と思うかもしれないが、今日はポアロの月に数度の定休日である。もともと安室は一週間休みになっていたが(部屋にも帰ってきていないけれど)、私と梓も予定がぽっかりと空いていた。
 何もない日程が梓と被ることも珍しかったので、この機会にと二人でショッピングに行くことにしたのだ。

 駅前にある、大型のデパート。私から見ると少し高めのものが多いけれど、それでも全てが煌びやかで、可愛くて、見ているだけでも満足だった。梓が買っていたブランドのアイシャドウが可愛くて、財布の中身と相談しながら奮発してシングルシャドウを買った。そのあとは、デパートのなかのカフェで一緒にパスタを食べた。

「なんか、ポアロでバイトしてると麻痺しちゃうのよね」

 パスタをくるくるとフォークに巻きつけながら、梓は贅沢そうにため息を零す。私はその言葉に、ふっと笑った。ちょっと分かる気がするのだ。
「分かる。安室さんの料理美味しいですよね」
「そうなの! 日頃美味しいもの食べてるせいか、舌が肥えてきちゃって……」
「でも梓さんの料理も超〜美味しいよ」
 カルボナーラの卵を崩しながら微笑むと、梓は僅かに頬を赤らめて微笑み返した。しかし、美味しいものに中々感動できなくなってきたのは確かに贅沢ながら一つの悩みである。安室の作るものは、パパっと済ませたものでも凝ったものでも舌を唸らせるから、恐るべき腕なのだろう。
「あんなのどこで覚えたのかな?」
「さあ……。ポアロに来たときにはもうプロ並みだったもの」
「彼女に教わったとか」
「ええ、安室さんが?」
 私も実際は冗談半分で言ったことなので、二人で顔を見合わせて笑った。
 確かに安室は料理もうまくイケメンで、事実女によくモテる。しかし、どうしてか彼女がいて、幸せそうに料理を教わる姿は想像できなかった。きっとそれは梓もそうなのだろう。「笑っちゃ失礼よ」なんて言いながら、きゃらきゃらと響く笑い声を零していた。

 そのあとは、梓が洋服を見たいと言っていたので、さすがに高くて買えなかったけれど一緒についていった。グレンチェックのコートは形が綺麗で、大人っぽい。私もバイト代が溜まったら、ああいうのも着てみたいなあと思いながら見ていた。

 一通りの買い物を済ませて、日が暮れる前に帰ろうかという話をしていた時だ。梓がちょっとお手洗いに行ってくる、と席を外した。トイレの前で待っていようかと思ったけど、休日――デパートのトイレは長蛇の列で、梓が並んでいる間近くの店で時間をつぶすことにした。



 一階はハイブランドが多く入っていたので、殆ど見て回るだけ。うろうろと歩いていたら、なんだか妙な気配があった。
 ――気の所為かな。後ろの人、さっきからずっと見掛ける気がする。
 キャップを深く被っていて顔は見えないけれど、深いカーキのセーターを着た男。私が見ているブランドはほとんどレディースばかりなのに、さっきから行く先々に見掛けるような気がした。
 もちろん、男だってレディースを見ることはあるだろうし、別に偏見で穿っているつもりはないのだけど――。ちらりと横目にそちらを眺めた。ウィンドウをぶらつきながら、やっぱり今も隣にいた。

 ちょっとだけ気味が悪くて、私は早歩きに他の店舗へと移動した。
 アクセサリーショップの前を屯していると、また先ほどのセーターが目に入る。
「……?」
 ふと、この間のことが頭を過ぎった。安室がいたことで、安心していたのは確かだ。一人が怖いとか、後を引くような感情はなかった。ただ、そういう人がいるのだという事実が、ふと浮かんだのだ。

 まさかね、とも思った。そんな変な人、そうそう遭遇するものでもないし。もしかしたら、何か言いたいことがあるのかもしれない。落とし物をしたり、道が分からなかったり、ナンパであったり――。

 こういう時に携帯がないって不便だ。心もとない。
 今度バイト代が溜まったら、コムみたいな安いもので良いから携帯を買おう。なるべく足早に歩きながらそう考えていた時、がしっと手を掴まれた。デパートの中は暖房が効いていたが、それにしても季節には不釣り合いなほどにぬるっとした手だった。

 振り返ると、やはり先ほどの男が私の手を掴んでいる。

 男は些か息が荒くて、私は不安を覚えながらも「あの」と尋ねかけた。何度か声を掛けてみたが、何か返答があるわけでもない。
「……離してください」
「……い、嫌だ。一人で死ぬのは、嫌だ」
「何言って――……」
 反射した。
 何か、鋭い光が私の視界を差す。ぎくりと心が軋んで、私はぐっと力を入れて手を振りほどこうとした。光、ナイフが反射した光。

 ――この世界の人ってなんでこんなに凶器ばっか持ってるの!?

 信じられない。銃刀法違反とか、存在しないのか。振りほどいた手は、一度離れて、再びその手に掴まれてしまった。こういう時は、声を上げないと! 幸い、周りには人がたくさんいる。

 思った矢先に、手首にチクリとナイフの先端が触れた。
 その瞬間、出そうと思っていた声がでなくなった。息を呑んで、ただひたすらに光るナイフの先を見つめることしかできなかった。その刃先を引けば、きっと痛い。血が出る。そう思うと、声が出なかった。

 はあはあと息を荒くした男が、手を震わせながら硬直している。彼もまた刃物を恐れているのが伝わる。なら離してよ! と心は叫ぶのだが、零れるのは吐息ばかりだ。私は誰か頼れる人――気づいてくれる人がいないかと周囲に視線を走らせていた。

「あ、がっ!」

 視線が外れた隙に、うなりをあげたのは目の前の男の方だった。
 私は何が起きたか分からなくて、でも手首への違和感がなくなっていることに一拍遅れて気づく。顔を上げると、男が白目をむきながらフラリと倒れようとするところだった。

 肩に、誰かの手が触れる。
 私のほうに倒れこむ男から私を避けるように、すっと体が引き寄せられる。はっと振り返れば、目に飛び込んだのはツンと冷たそうな顔をした男だった。彼は何も言わず、私のほうを見下ろす。

「え、えっと……あの……?」

 肩がそっと離されて、私は体の向きを直して、改めてその男を見る。彼もまた深くキャップを被っていたが、その頬に走る火傷痕のようなケロイド状の傷がクッキリと目立っていた。

 ――助けてくれた、んだよね。

 助けるところを見ていなかったせいでイマイチ実感がないが、今の状況を見る限り、きっと先ほどの男を何とかしてくれたのは彼だ。「ありがとうございます」、と頭を下げると、彼は何も言わないまま小さく頷いた。

「あー、えっと。もしかして声が……、筆談ならできます?」

 鞄から新しく買ったばかりのノートとシャーペンを取り出して、彼のほうに手渡すと、彼はちょっとだけ戸惑ったようだった。あれ、違ったのかな。引き結ばれた口を僅かに歪めてから、仕方がなさそうにペンを走らせる。

【血が出てる。病院に行きなさい】
「うわっ、本当じゃん」
【警察にも】
「あ、そうですよね。ありがとうございます、本当に」

 彼はそう書き残して踵を返そうとするので、私は彼を引き留めた。
 だって、このあと警察が来たら、何て説明したら良いか分からない。通りすがりの人が助けてくれました〜で良いんだろうか。まかり通るのか、それ。


「あの…………――」


 言葉も半ばで沈黙を貫いたのは、彼を引き留めて見上げた時、その顔つきをしっかりと捉えたせいだ。グリーンアイ――特徴的な目の下の隈に、ハーフらしい高い鼻先とちょこんとした小さな口元。キャップの隙間からチラリと揺れた、癖のある前髪。彼はやっぱり喋らないままに、そのグリーンアイで私を見下げていた。


prev Babe! next
Shhh...