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「あ……っ」

 予想外のことに、声が漏れた。赤井秀一、という単語を発しかけて、気合で喉の奥に飲み込む。影になっていて表情はうまく読み取れないが、確かに、赤井の顔だと思う。沖矢には出会ったことがあるが、赤井の顔を見たことがないので不確かではあるが。ただ、あんな顔つきがそこらに転がっていても困る。

 その頬に走った火傷痕を見て、思い出した。そうか、赤井秀一の偽物だ。原作通りだとしたら、変装しているのはベルモットか――バーボン。安室透その人のはずだった。こちらをジっと見つめるグリーンアイにどきどきと胸を鳴らしながら(これはときめきではなくて、警鐘だ――)、指先の力を弱めた。

 大丈夫だよね。今の『あ』くらい不慮の事故だよね。
 自分自身に言い訳するように視線を泳がせて、私は愛想笑いをして首を振った。
「ごめんなさい、引き留めちゃって……。あとは警察の方に任せます」
 ありがとうございました、と頭を下げる。そりゃあ、この姿じゃ事情聴取されたら困るだろう。頭を下げた拍子に、指先まで伝っていた細い血筋が、彼の手に触れてしまったことに気づいた。

「わ、ごめんなさい! 汚れちゃった」

 もうだいぶ乾いてしまって、指で拭ってみたが浅く幅を広げるだけだった。私が手を無遠慮に掴んでしまったせいだ。申し訳なくて謝ったら、男はゆるゆると首を横に振り、僅かに――よく見ていないと分からない程度に口角を持ち上げた。癖毛がそのたびにチラっと揺れて、白い肌に掛かると色っぽくも見えた。

 正体がベルモットだとしても安室だとしても、本当にすごい変装技術だと思う。肌の色は生まれてそのままの素肌にしか見えない。髪もそうだ。静寂に笑みを載せた姿を見つめていると、男は首を軽く傾げた。怪訝そうに瞳が細められる。

「あ〜、いや。お兄さん、かっこいいなーと思って見ちゃいました」

 まさか赤井秀一の顔にビックリしました、なんて言えなかったので、あははと頬を掻きながら笑う。ちょうどその時に、「芹那ちゃん」と梓の声が聞こえた。私が振り返るのを、男の手が阻んだ。
 彼は一刻も早く立ち去りたいだろうに、どうしたのだろうか。振り返ると、先ほど筆談に使ったノートとシャーペンをやや乱雑に引っ手繰る。そしてサラサラと何かを一言書くと、私にずいっと押し付けて、彼は踵を返してしまった。

「きゃー! 何この男、どうしたの」

 頬を押さえて、慌てたように私の上から下までを心配する梓に、私はふと笑ってしまった。大丈夫かと聞かれて、頷きながら、私は先ほどの男に言われた通り、警察と病院に連絡をした。


 男がこちらに押し付けたノートには、シンプルにたった二文字の言葉が並んでいる。

【醜男】

 ――って、何だ?
 家に帰ってから授業で使う国語辞典で調べると、どうやら不細工って言うことらしい。
 もしかして――もしかしなくとも。私が赤井の顔にかっこいい、と零したことに対して言っているのか。
「ぷっ……ふ、あはは」
 私はその文字を眺めながら、笑いが漏れるのを押さえられなくて、ソファの上で一人腹を抱えて蹲った。
「いやいや、絶対安室さんだったんじゃん……ふふ」
 だって、あの赤井秀一の顔に不細工って! いくら火傷の痕があったとはいえ、いくら目つきが悪いとはいえ、涼やかでセクシーな顔つきをしたあの男を、不細工って。相当赤井がかっこいいと評されたことに腹が立ったのだろう。

「ふ、ふふ……はぁ〜……」

 一通り笑い終えてから、私はごろりとソファに横になって、そのノートを開き見上げてみた。まさかこの短期間で、二度も変質者に襲われるなんて、想像ができるわけがない。元の世界では、たまに露出狂とかを見ることこそあれど、あんなふうに凶器を持ち歩く人に出会ったことがないのだ。本当に物騒な世の中だ。

 安室は、あんな場所で何をしていたのだろうか。確かにデパートで姿を見せるシーンがあった気がするが、あの時は爆弾騒ぎでデパート全体が巻き込まれていたように思う。それとは別件で、用があったのか。

「……私が知り合いか確かめるためとか?」

 だとしたら、あの反応は中々にまずかったかもしれない。今更取り返そうと思ってもしょうがないけれど。そう思う反面、安室がどうやらこちらの身を案じる気持ちがあるらしいことに、少し嬉しさを覚えた。怪しい奴だと疑うことと、心配することは別か。
 
 ノートを見上げて考えていたら、するりと手から滑り落ちたノートの角が鼻に落ちた。「いだっ」と声を零して、鼻を摩りながらノートを拾う。

 ノートのらせんに沿うように、きっちりと並んだ文字。
 病院に行きなさい、という口調は、思えば安室の言葉そのままだと思った。その線の上を、そっと人差し指でなぞってみる。癖がないわけではないが、綺麗な文字だと思った。読みやすくて、どこか年配の教師のような、こちらの背までピンと伸びてしまうような、キッチリとした文字だった。

 ――それが、なんだか格好いいと思った。

 もちろん、彼は格好いい。まず見た目、それから行動も紳士的だし、声も魅力的だろう。そんな安室が書いたものだからと思うせいなのか、それとも単に憧れなのか。そのしゃんとした文字が、恰好良かった。

 私の書く文字はお世辞にも綺麗とは言えなくて、よく友人にペンの持ち方も妙だと言われる。中指と薬指を支えにして書いているのだけど、本来は違うらしい。
「……なんか、良いなあ」
 その文字は、そのまま安室の性格を映しているみたいに思えた。真っすぐで、正義漢が強くて、きっちりとしていた。


『それは下手で馬鹿なんじゃなくて、経験がなくて教えてもらっていないだけ。今から知れば良いことです。だから、わざわざ卑下しなくてよろしい』

 私は暫く考え込んでから、ひょいっと上体を起こして、テーブルにノートを置いた。そのらせんに沿うように、隣にある安室の文字を見ながら、文字をソックリに写してみる。
 あんなに急いで書いたというのに、そこにある文字は美しくて、真似をしようとしたら時間がすごく掛かってしまった。けれど、書き終わった文字は今まで書いたどの文字より、なんだかスッキリとしていて、私はゆるりと頬を緩めた。

「ケッコー良い感じなんじゃない?」

 ふふ、と笑いながら、ノートを斜めにしたりして色々な角度から文字を眺めてみる。すごい。私にも書けるじゃないか。ちょっとだけ自信家になって、ふんふんと鼻歌を歌いながら他の文字を書いてみる。

 やっぱり手本がないと、中々上手くいかない。
 安室に手本を書いてもらおうかとも思ったが、あの赤井秀一を安室透と同一人物として扱うことはタブーだ。沖矢に口止めされていることもあるが、言えば安室との距離が空いてしまうだろう。
 もちろん疑われることは良い気持ちじゃないが、私にとってはそれよりも安室が私に敵意を抱くことが嫌だった。怪しい奴ならまだ良い、完全に敵だと認識されたら、今のように部屋にもあげてもらえないだろうし、頬も摘まんでくれないと思う。

 いつのまにか、それが寂しいと感じた。
 こちらに来てから、彼に助けられてばかりだから、そう感じてしまうのかも。

「あーあ。先生漢字の書き取りとか出してくんないかなあ」

 ノートを広げて、机の上に項垂れながら、私はぼやく。いっそペン習字みたいの、習ってみる? それも楽しそう。安室もきっと気に入るだろう。私は手に巻かれたガーゼを見て、ニヤニヤと笑った。それは、確かに私を心配してくれた証だと、そう思ったからだった。


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