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「芹那〜?」

 甘えたような声が、どこかで私を呼ぶ。幼いころから聞き慣れた声だ。まだ眠気が私の瞼を重たくして、「はあい」と口元をもごもごとさせながら返事をした。母の声とよく似ていると、周囲からは言われる。偶に電話を取ると、母と間違えられることも多くあった。

「芹那ってば、いないの? もー……」

 だから、返事してるじゃん――。
 欠伸を零しながらもう一度「ママ」と呼びかけた。ガサガサというビニール袋が擦れる音は、またいつもの店で弁当でも買ってきてくれたのだろうか。煮えを切らしたように、母親が家の中をパタパタと駆けまわる。どうしたんだろう、そんな忙しなく。
 そうだ、いつもの弁当も良いけれど、一緒に味噌汁でも作ってあげようかなあ。食べ慣れたコンビニ弁当でもお惣菜でも、これが一品あるだけでなんだかホっとするんだ。特に、こういう寒い日は。

「――……芹那?」

 ガサリ、とビニールが床に力なく落ちた。
 不思議に思って振り返る。目の前にいるのは間違いなく母親で、肩から気に入りの鞄が続いて落ちていく。彼女は焦りと不安を張り付けたまま、こちらを見つめていた。そしてヒュっと息を呑みこむと、縺れそうな足で鍵も閉めずに玄関を飛び出ていった。その間も、彼女は私の名前を呼び続けている。

「ママ、ママってば! 待ってよ」

 私もその細い背中を追うように飛び出した。彼女は家の周りを、走り回りながら、まるで私の姿を探すように視線を彷徨わせている。その頬には涙が伝っていた。


「――ママ!」


 その背に手が届くか届かないか、寸前に瞼がパチリと持ち上がる。
 息が切れた。不揃いな鼓動が、五月蠅く体中を揺らしている。先ほどまでのアパートの一室とは異なる、小綺麗なマンションの一部屋。夢なんか見たのは久しぶりで、寝すぎたせいか痛む頭に手を当てた。

「……ママ」

 今見たのが、夢なのか、あちらの世界のことなのかは分からない。ただ、あの細い肩やいつも使っているベージュの鞄、近所にある弁当屋のビニール袋、それらがあまりに現実らしすぎて、ひどく夢見が悪い。
 枕元にあるデジタル時計を見遣った。十一時過ぎ。閉め切ったカーテンの隙間から、眩い光が筋になって差し込んでいる。カーテンを開けると、眩い光が鋭く満ちた。目を細めて、スリッパを履くとのそのそとベランダに出た。

 窓を開ければ、空気は冷たく澄んでいて、それが痛む頭を和らげた。鏡が反射したような光を受け止めながら、私は少しだけベランダの外を覗く。当たり前だが、あのシルエットがあたりを走っているようなことはなかった。

「いやいや、安室さんに拾ってもらっただけでラッキーでしょ」

 ネガティブになることはない。現状が変わることなんてないし、不自由ない生活と、学校にまで通わせてくれている安室に感謝するべきだ。

「……前髪、伸びたなあ」

 確か、あの日は前髪を切った次の日だった。少し短めにしたつもりの前髪は、既に目に掛かるほどの長さにまで伸びていて、それがこちらに来てからの歳月を思い返させる。
 ――でも、普通そうだよね。
 子どもが姿を見せなくなって、二、三日だったらただの家出かもしれない。こんなに長くなれば、心配するだろうなあとは思った。なんとか、元気にしているよと、それだけでも伝えられれば良いのだけど。


 母の事が好きだった。
 例え料理ができなくとも、仕事で忙しく家に帰れずとも――。そんなことは別にどうってことない。母は娘の私が憧れるくらいに綺麗な女性で、手入れの行き届いた指先でよく私の髪を撫ぜてくれた。

『芹那はママの宝物だもんねえ』

 それが母の口癖だった。よく周囲からは「寂しいんじゃない?」「可愛そうに」と言われたものだけど、それを聞いて尚その台詞が出てくるなら大した根性だ。


「はあ〜……。やめよ、お腹空いたし」


 会いたいという想いは強くあったが、駄々をこねて泣きわめいたってしょうがない。そんなチャチいことで元の場所に帰れるならいくらでもするけれど。ヨシ、と凭れたベランダから手を離し、ぐぐっと背伸びをした。たまには真面目に課題にでも向き合っておこう。一応、学生の本分だから。

 部屋に戻ろうとしたら、ワン、と聞き覚えのある鳴き声がすぐ傍らから聞こえた。ベランダの下を一度覗いたが、多分違う。どうやら衝立の向こう側――隣の部屋からだ。「ハロ?」と呼びかければもう一度ワン、と。

「……もしかして、安室さんいますか」

 ベランダに出る窓は横開きだし、鍵はハロが届くような場所にはなかった。尋ねると、暫くの沈黙の末「すみません、戻り損ねて」と気まずそうに声が返ってきた。
「いるなら言ってくれれば良いのに」
 私はひょこりと柵から上半身を乗り出した。彼もまた、私の声を聞いてベランダの柵へ腕を凭れさせる。金髪に映えるグレーのスウェットはクタクタで、いつもとは異なりずいぶんと生活感に溢れていた。

「ふふ、なんかレア〜」
「君だって部屋着なのに」
「私のは何回も見てるじゃん」

 部屋着でいてもこのイケメンっぷり。寧ろちょっと彼氏感があって、それがぐっときてしまう。朝から摂取した安室のご尊顔に心をホクホクとさせて、私は自然と先ほどまで痛んでいた頭のことも忘れていた。

「今起きた所なんですよね。寝すぎちゃった」
「実は僕も。オフの日は駄目で」

 おお、意外。寝起きだったらしい。寧ろ今までの忙しさを鑑みれば、十一時までで大丈夫なのだろうか。いっそ一日寝ていても良いような気がするけれど。「忙しいんですね〜」と相槌を打てば、いつもよりちょっとだけポサっとした髪の毛が揺れた。

 ベランダにいたから、煙草でも吸うのかと聞いたら、安室は露骨に嫌そうにしてベランダで家庭菜園をしているからその水やりなのだと答えた。そんなに嫌がらなくても。何を育ててるんですか、とか。それどうやって食べるんですか、とか。他愛なく話を続けていたら、安室がその甘ったるい目つきで私のことを見つめていた。

 アイスグレーの大きな瞳は、向かい合う人の表情を鮮明に反射する。時折鏡が見つめているようでドキリとするくらいだ。私が小首を傾げると、彼の目の中にいる私も不安げに首を傾けた。


「……人に執着するのは悪いことじゃありませんよ」

 
 彼は、長い前髪から覗く眉をなだらかにして告げた。私は「ん?」と訳も分からないまま、もう一度首を傾げる。安室は私から視線を外すと外を眺めた。冷たい空気が、似合わない褐色の暖かそうな肌を浮き彫りにさせる。

「君は執着することを、どこか怖がっているから」
「シュウチャク、って。難しいこと言いますよね」
「あの人じゃないと嫌だとか、そう思わないようにしているでしょう。だからどこか割り切りが良い。記憶障害と言われようが、何も知らない土地にほっぽられようが、そこがどこか知らない世界であろうが――……」

 ギクリとした。彼は決して断定しなかったけれど、私にとっては図星だった。その動揺を誤魔化したくて、ヘラリと笑っておいた。安室はその笑顔を目に留め、ふっと笑った。

「きっとまた違う場所に行って、そこに僕がいなくとも、君は何とも思わないんだろうな」

 別に、馬鹿にしたような口調ではなかった。
 先ほどと同じような、世間話をするような口調。セロリのことを語るのと何ら変わらない、風を受けて金色がサラリと流れ、形の良い額が覗いた。
 私はそれに返事ができなかった。
 ――寂しいとは、思うだろう。会えないことは寂しい。けれど、それに混乱し泣きわめくかと言われたらそうでもないとは思う。


『芹那はママの宝物だもんねえ』


 急に、自分のことがとても薄情に思えた。優しい母親のために、涙を流さないことを。取り乱さないことを。でも、だって――しょうがないから。
「すみません、知ったような口を利きました」
 安室は、決して態度を崩さないまま苦笑した。その大きな瞳に映る私も先ほどと変わらない曖昧な笑顔を浮かべていたように見えた。


prev Babe! next
Shhh...