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「本当に大丈夫? 家まで送ろうか」

 暗くなった空を見上げて、梓が申し訳なさそうにエプロンを畳みながら告げた。まだ未成年――高校生ということもあり、バイトは七時までと安室から口酸っぱく言われていた。学校を終えてからの三時間ほどバイトをして、安室がいる時はラストまで、いないときは梓に頼んで少し早めに店を出る。
 すっかり身についたことだったけれど、つい常連になっていた女子高生たちと話し込んでしまった。梓は梓で他の常連客と話をしていて、時間を忘れてしまっていたのだ。時計はもうすぐ九時を回ろうとしていて、商店街の人通りもまばらになっている。
 しかし冬になり日が落ちるのも早く、普段のバイト上がりと空の暗さはさして変わらないように思った。梓も歩きでここまで来ているし、同じ女性同士だ。送ってもらうのはさすがに申し訳なくて、私は「大丈夫」と笑いながら店を出た。

 まあ、あっちの世界では遊び歩いて帰りが九時ごろになることなんて日常だったし。「気を付けて帰ってね」と最後まで心配そうにする梓に、安心してほしくてなるべく明るく頷いた。

 手袋をつけていつもの帰り道を歩いていたら、途中で稽古帰りらしい数美に会った。持っていた道着を見せてもらって、世間話をする。どうやら家はすぐそこだったらしくて、今度バイト先に遊びに来てと言えば、彼女もクールな顔つきを綻ばせて笑った。

 その後帰り道に戻ると、時間が些か遅くなってしまう。
 さすがに少しだけ足早に、暗くなった道を歩いた。店もチラホラとシャッターを閉めていて、歩く人はサラリーマンであったり、犬の散歩中であったり。寧ろ、それに該当しない人がいるとふと不安が過ぎった。

「……」

 いやいや、考えすぎだ。
 まだ人気はあるし――。後ろに歩いている人がいたって可笑しくはない。チラと背後に視線を遣る。誰かが歩いている気配はあったが、まあ、大丈夫。私はそう自分に言い聞かせながら、それでもやっぱり早歩きで歩いた。
 すると、誰かの足音も合わせて早まるのが、足音のよく響く路地のせいで分かった。

「……あの」

 ぐっと肩を掴まれて、ぎちっと体が固まった。
 大きな手。触れただけで男のものだと分かった。

 しかし、振り向いてすぐ、その肩が和らぐのが分かった。見上げる長身と、亜麻色の髪。黒いハイネックにキャメル色のジャケット。

「お、沖矢さん」

 無意識だったが、殆ど安堵の色を含んだため息が零れていった。彼は口元を微笑ませて、それから大きな手をゆっくり離した。
「すみません。遅い時間に見掛けたので、心配で――怖がらせてしまいましたか」
「ちょっとだけビビりました……。沖矢さんだって足音五月蠅いじゃないですか」
「一般の道路で足音を消している男も妙でしょう」
 と、彼は冗談めいたように肩を竦める。
 沖矢とは出会い頭で既に赤井の口調を聞いていたので、なんだかこうも柔らかく丁寧な言葉遣いだとむず痒い。彼はそのまま私の隣に立つと、「送ります」と歩き始めた。長い脚の通り、広い歩幅だ。

「……落ち着きましたか?」

 彼はにこやかにそう尋ねた。
 私は質問の意図が分からないままに、はてと首を傾ぐ。沖矢はそっと私の手を取った。恋人のようなものじゃなくて、まるで医者の診察のような手つきだ。彼の手のひらはひどく乾燥していて――じゃない。私の手が、ひどく湿っていた。
「ぎゃ……」
 驚くのは、滴るほどの手汗の量にもそうだが、それに気が付かなかった自分自身にだ。ぬめぬめとした感触が気持ち悪い。なにこれ。
 その大きく太い指先が私の手をすっと払うように撫でるので、私は慌てて手を引っ込めた。さすがに年頃の女なので、イケメンに手汗を拭かれるほど恥ずかしいものはない。死にたくなった。

「ご、ごめんなさい。全然気づかなくて」
「別に謝ることは。夜道で背後から近づかれて警戒するのは当然です」
「そーかな……」

 今まで、そんなこと意識したことがなかった。
 ――というか、歩く時はいつも音楽を聴いていたからかもしれない。足音なんて耳を澄ませて聞きもしなかったし。軽い息切れにも、沖矢に言われるまで気が付かなかった。

 沖矢は多分、私の歩みに合わせてくれようとしたのだと思う。
 動揺した私に合わせた歩みは、思うよりもずっと遅くて、それが尚更安心させた。私にアレコレ条件をつけはしたけれど、結局良い人なんだなあと感じさせた。
 彼の隣に並んで歩くと、ほんのりと煙草の苦い香りがする。ツンとした鼻先を見つめて、【醜男】の字面を思い返した。やっぱり、これをブスとはとても思えない。好みではないけども。


 マンションの近くに差し掛かると、沖矢はポケットに手を入れたままふと空を見上げた。そしてふと笑みを零し、足を止めた。

「どうやら、彼はいるようですね。僕はここまでにしましょう」
「え? あ、本当だ。電気点いてる」
「入り口までは見守っていますから、安心して行ってきなさい」

 ここからマンションまでは直線の一本道だった。まだ少し離れてはいるけれど、彼の言う通り何かあれば沖矢からも見えることだろう。私は沖矢に頭を下げた。以前の安室の件と言い、この世界の人に借りばかりが増えていってしまう。

「ほんと〜にありがとうございます! また今度お礼します!」
「とんでもない」
「おやすみなさい」

 頭を下げて、私は足早にその道を進んだ。ちらりと振り返れば、沖矢は煙草を咥えながらこちらに向かってヒラヒラと手を振っている。うん、大丈夫。私はぱたぱたと走って、もう慣れたエントランスを潜り抜け、なんとなく階段で駆けあがった。エレベーターを使わなかったのは、自分でもよく分からない。

 階段の途中で道のほうに顔を出すと、沖矢はまだそこに立っていた。ここからでも、小さいが姿は確認できる。向こうからも見えるように、ブンブンと大きく手を振った。こちらから彼がどのような反応を返したのかは分からなかったけれど、なんとなくこちらを見ているような感じはする。さすがスナイパー、目が良い。

 彼と最後の別れを済ませてから、自分の部屋のある階へ駆け上る。鍵をごそごそと鞄から探って、ぱっと廊下に上がると、点滅する灯りの下に一つの影が伸びていた。

 怖くはなかった。よく見慣れた金色が、暗闇のなかで月明かりのように立ちすくんでいたからだ。私の姿を見て、普段穏やかそうな表情がやや険しく歪んだ。

「た、ただいま」

 そう告げれば、彼は私の部屋の前に立ったまま、ため息とともに「おかえりなさい」と言う。なんだろう、沖矢と一緒に帰ってきたのが悪かったのかな。どんなニコニコとした笑顔の安室透よりも、その一つのため息が怖くて、身を竦めながら歩み寄った。

「遅かったですね」
「あ、うん……。ちょっと友達に会っちゃって」
「ハァ――……」
「あの、そのため息怖いんだけど……」

 と言えば、安室はヒクリと眉間に皺を寄せ、「怖くしてるんです」と少しだけ声を荒げた。
「七時までって言いましたよね」
「そ、れは……そうなんだけどさ……」
「良いですか。君にどういう認識があるかは知りませんが、夜の八時以降は女性への犯罪行為が格段に跳ね上がります。それは子どもであろうが、大人であろうが同じことです。小学生から四十代の主婦まで、被害にあったという例はたくさんあるんですよ」
 約束を反故したという後ろめたさはあるので、指を組んでモジモジと動かした。「はい」と教師に叱られた時のように、項垂れて返事をする。現にここまで沖矢に送ってもらったわけで、反論の一つも思い浮かばなかった。

 す、とその指先が、私の額に触れた。
 正しくは、走ったせいで乱れた前髪を、そっと直した。暖かな指先に顔を上げれば、安室は険しさをなくして、目つきをふわりと下げた。

「そんな世の中でなければ、良いんですがね」

 ――どこか、自分を責めるように、寂しそうに彼は呟く。
 あなたは悪くないよ、と全て曝け出したい気持ちを、冷たい空気と共に飲み込んだ。


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Shhh...