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「さあ、鍋を作ったんです。冷めてしまったから温めなおしましょう」

 そう背中を押されて、私は目からポロっと鱗が落ちるような想いだった。
 思い上がりでなければ、彼は私を心配していたのだろうか。部屋の前で見た、ため息の混ざる嘆息に、夢で見た母の顔が重なった。安室の私に対する想いは、義務と疑念のみだと思っていた。もしかしたら発信器や盗聴器とかつけられてるかもな〜、とかも予想していた。
 けれど、今日の反応を見る限り違うらしい。
 彼は、多分、単純に私が予定通りの時間に帰ってこなかったことに対して、何らかの焦りを抱いていたのだ。それこそ、得意のポーカーフェイスや心理的な繕いもなく。ぐつぐつと煮えていく鍋を眺めながら、私は口を噤んだ。

 涙が、浮かんだのだ。

 でも、ここで涙を零したら、すごく変な人だなあって。なんで泣いてんの、って。そんな感じになるのが嫌だから、ひたすら口を真っすぐに噤んだ。きっと、変な夢を見た所為だ。ずっと忘れていた母の影を見てしまったせいだ。
 
「昨日は、言いすぎてしまったから」

 安室は煮えた具材を手慣れた風に取り皿に移しながら、話し始めた。鶏肉と、えりんぎと油揚げ。私は零れそうになった嗚咽を堪えながら「糸こんにゃくもほしい」と言った。彼は苦笑いしながら、器用な箸使いで糸こんにゃくを多めに入れてくれた。

「年頃の子に、ずかずか踏み込むべきではなかったかと反省してね」
「……ううん」
「つい、寝言が聞こえたから」

 はい、と渡された器を手に取って、私は「寝言?」とその言葉を復唱した。

「ママ、って呼んでたんですよ」
「あっ」
「なのに、君はいつもあっけらかんとしているでしょう。最初から母親なんかいなかったみたいに、探そうともしない」

 ――だって、探したってこの世界に母親はいないのだもの。
 日本屈指の捜査官である彼に名前を伝えたのだ。それでも見つからないのなら、仕方がないのだ。そもそもの世界が違うので、いても困るけれど――。
「正直、最初は妄言なんじゃないかって思ったんです。そんな人はいないから、平気な顔をしているんじゃないか――ってね」
 彼の器には、大き目の大根が注がれた。湯気の立った鍋が、視界を曇らせていく。白い煙の向こう側にいる安室は、ちらりと此方を見た。丸っこいのに、鋭いような瞳の奥が、私を見据えた。
「ただ、最近は君はそうやって防衛線を引いているのでは、と思うようになりました。何かあったときのために、入れこまない風を装っているんじゃないかと」
「……年頃の子にずけずけ踏み込まないんじゃないんですか」
「おっと、失礼。探偵の性でして」
 むすっとしながら、私は糸こんにゃくを口に入れた。温かい。器に触れた指先も、喉に押し込んだ体の奥のほうも、じわじわと体温が上がっていく。美味しくて、つい息が零れた。

「……ていうか、記憶障害の時点で変な人じゃん。なんで安室さんが世話焼いてくれるのか分かんないし」

 拗ねたように言えば、安室はフム、と考え込むようにした。
 それから、割った大根をぱくりと頬張り、「美味しい」と一言零した。そして、その口調と変わらないトーンで、話を続ける。昨日観たテレビの内容を語るようだった。


「僕はね、君が別の世界の人間なんじゃないかって、そう考えているんです」


 ごくっと飲み込んだえりんぎが、気管に入りかけた。思い切り咽込んで、ゴホゴホと派手な席の音が部屋を満たしていく。

「な、なんで!?」

 驚きのあまり涙すら引っ込んで、私は安室のほうを見上げる。まさか、本当に盗聴器が――。けれど、あの日赤井と話をしたときは、赤井にそれはもう隅々までそういった類がないか調べられたものだ。多分、そうではないと思う。どちらが優秀だとかは分からないが、少なくとも今の今まで気づかない男ではないはずだ。

 安室は私の盛大な動揺を見て、肩を揺らしながら笑った。そう思っているのなら、尚更私を心配する意味が分からない。

「理由はいくつもありますが――、たとえば、小説によくある並行世界とかだったり、パラレルワールドだったりね。ロマンがあるでしょう?」
「ロマンって……」

 私は、知っている。映画の中でだけれど――彼はロマンを理由に納得するような人じゃないことを。戸惑った。今までも胡散臭くて分からない人だと思っていたけれど、益々何を考えているのか分からなかった。言い古されたようだが、掴みどころがないとはこのことだ。
 同時に、少しだけ彼の推理力が恐ろしかった。
 まさか、そんな考えに至るか、普通。安室がこうってことは、コナンたちにもいずれはバレるんだろうか。――そりゃあ、死ぬ気で隠しているわけじゃないけれど。バレたところでどうしたら良いか分からないから、黙ってるだけだけど。

「一番の理由は、君が現れた場所です」
「場所? って、あの海……」
「はい。海に落ちてきましたね」

 もみもみとうどんをパック越しにほぐしながら、安室は言う。そしてその中身を鍋の中に入れ、菜箸でほぐした。

「地上から雲までが二十キロメートル。僕の目が悪かったとしても、君が落ちてきて数キロメートルはあったでしょう。まあ、まず譲歩してハリケーンに巻き込まれたかジェット機から落ちたとして――人間が水面落下で生還できるのは七十五メートルが限界とされていますから。ロマン以外に説明がつかないんです、君が落ちて、今生きていることに対して」

 ふと、彼が頬杖をついた。うどんが温まるまで、待つのを退屈そうに麺を箸の先で弄っている。ニコ、と頬を緩めて、言葉を続けた。

「ただ、それを突き止めるつもりもありません。これは配慮とかではなく――別にその真相を暴くことに、意味も興味も見出しません。これが僕の本音です」
「そう……ですか……?」
「はは、分かってないでしょう」

 うん、と素直に頷いてしまった。安室が何を言っているのか、半分ほど理解ができたかどうか。とりあえず、私のことをどこか妙な場所から来た人間だと思っていて、安室はまあ良いやって感じ――ってこと?
 
「あ、うどん煮えましたよ」

 と安室が言うので、私はまだ食べかけの器を差し出した。中にツユとうどんを注ぐ姿を見つめて、ぽけっと惚けていた。鍋突いてても、イケメンはイケメンだなあとも思った。そんなことを考えていないと、今の話についていけなかったのだ。

「ただ――、自分のことは、大切にしなくちゃあね」
「いや、私自分大好きですけど……」
「今日みたいな危機感のなさを言っているんです」

 きゅっと軽く頬を抓られて、私は「いで」と声を漏らす。
 ――もしかして、真実を知ったら違うかもしれない。
 私が彼のトップシークレットを知っていると言ったら。赤井秀一の正体を、工藤新一の正体を知っていると――そう言えば、彼の態度はまた一変するのかもしれない。安室と赤井は違う。同じ国を守る男ではあるが、安室のほうが私にとっては得体が知れなかった。

 だから、言えなかった。
 「そうです」なんて、肯定することはできなかった。今はただ、私をそのままに受け入れてくれる彼に甘えたい気持ちが強くて、私は心の奥に真実を隠してしまった。一度隠したものは、中々曝け出すことはできない。安室の善意を全て棒に振ってしまうのが嫌だった。

「君が母親に会いたい気持ちは、嘘じゃないんでしょう?」

 笑いかける安室に、私は小さく何度も頷いた。
「なら、僕にはそれで十分だ。せいぜい元気に過ごしてください」
 啜ったうどんは温かく胃を満たしていく。私は今になって、寂しいという気持ちを覚えた。同時に、じわっと心に広がる暖かな気持ちの名前を、私はまだ知らない。


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