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「安室さん、ただいま〜!」

 開いた扉からヒョコリと顔を出すと、相変わらず綺麗な顔つきが私を迎えた。白いケーブル編みのセーターが暖かそうだ。――あれからというもの、面倒を見てくれる人、という安室のポジションは、私の中で信用できる大人に変わっていた。
 相変わらず暗くなれば身を心配してくれるし、一緒に食べるご飯は美味しい。時間があれば課題を見てくれたり、休日が合えば買い物に付き合ってくれた。私が別の世界から来た人間であろうと、それでも気にしないと――人に執着しても良いのだと、諭してくれた姿に影響はされたと思う。

 結局、彼がどうしてこんなに親身になってくれているかは分からないのだけど、少なくとも善意ではあるようなので良いかと思った。私のことを追求せず受け入れてくれた彼に倣い、私もそのようであろう。

「ハロもただいま〜」

 ニコニコとハロに手を差し伸べると、小さい体は低く唸って、機嫌悪そうにそっぽを向いてしまった。ハロに出会ってから初めての経験だ。中々にショックで、立ち尽くす私に安室が手招きながら苦笑いした。

「大尉を触ってきたでしょう。ハロは他の動物の匂いに敏感なので」
「あー、そっか。でも大尉も可愛いんだもん……」

 大尉は、ポアロあたりを縄張りにしている野良猫だ。額から妙に直角な八割れ模様をしていて、それがまた愛嬌があり可愛い三毛猫だった。基本的には梓に懐いているのだけど、私もそのおこぼれで撫でさせてもらったりするのだ。

「――……ホラ、こんな所にも猫の毛が」
「え、どこどこ?」

 私がくるっと一周すると、彼は私の後ろに回って襟首辺りを摘まみ取った。――そんなところに? 確かに大尉を撫でたけど、別に抱っこしたわけじゃないのに。ふいっと振り返ると、安室は気難しそうに一瞬瞳を細め、しかしすぐにニコリとした。

「まあ、寒くなると猫は毛が抜けやすいから。換毛期というやつですね」
「あー、ハロも最近モフモフだもんねぇ」

 ――変な物仕掛けられたわけじゃないよね?
 不安になってトイレを借りた時に触れてみたけど、別に特殊なものはついていなかった。コナンの使っている小型の盗聴器でも、多分触れば分かる厚いシールくらいの大きさだったと思うので、目視できないようなものではないと思う。
 ほっとした。なんだ、本当に猫毛がついていただけか。私は機嫌よくトイレから出ると、良い匂いのする食卓へ駆け寄る。最近は、以前のように家を頻繁に空けなくなった気がする。以前が本当に繁忙期だっただけなのかな。

「マーボー豆腐! 美味しそー」
「辛いのは大丈夫?」
「すっごい大好き!」

 言えば、安室は良かったとレンゲを渡してくれた。彼の作ったマーボー豆腐は、言った通り中々に香辛料が効いていて辛かった。こんなに甘い顔をしているのになあ、と思いながら、安室がフウフウと口を尖らせて豆腐を冷ましている顔に心の中で拝んでおく。

 私は今日学校で交換した手紙を鞄から出しながら、安室にその日あったことを話した。彼はその手紙をぺらりと受け取ると、興味深そうに眺めて「へえ」と何度か浅く頷く。

「手紙かあ」
「うん。ほら、私携帯持ってないでしょ。だから友達がメールの代わりにって……ちょっと小学生の時みたいでワクワクしない?」

 シンプルなものから、可愛らしく雑貨屋で買ったようなものまで、様々なものがテーブルの上を彩った。友達とのメールは好きだけど、こうして筆跡が見れるのも悪くないなあと思う。携帯を持っていない子どものころは、友達同士でメモ帳を折って手紙にしていたっけ。
「こっちは数美でしょ、こっちは新出先生の。見て、字が綺麗」
「本当だ。きっとたくさん文字を書いてきたんだろうね」
 新出のしたためた手紙は、まるで老人のような内容ではあったけれど(それが彼らしいとも言える)、安室の文字によく似た綺麗な文字が走っていた。体調は悪くないかい、とか。予防接種のあとだけど、じゅうぶん手洗いうがいをすること、とか。――あ、今日してないや。

「君も返事を出すんだろう」
「そう。それでね、安室さんに見本を書いてほしいんだよね」
「……見本?」
「だって……あ」

 安室さんは字が綺麗だから、と言おうとして口を噤んだ。
 あのノートは、安室の姿が書いたものではなかったから。私はへにゃっと笑って「ほら、私字が下手クソだから、恥ずかしくて」と誤魔化した。

「字が綺麗になりたいのかい」
「あ、うん。だって、格好いいな〜って思って……。昔は漢字の書き取りとかそういうのサボっちゃったし」
「書は人なり、か」

 ――ショハヒトナリ。
 日本語として入ってこなかったので、その音のままに繰り返すと、安室はハっとして言い直した。

「字は体を表す、とも言うかな。書く文字にはその人の性格が滲むってこと。柔らかい字は優しい人が、カクカクとした字は厳格な人」
「そうなんだあ……。じゃあ、字が綺麗になったら美人ってこと? 良いじゃん」
「それ、性格じゃなくて外見だと思うけど」

 安室は何やら複雑そうに笑ったが、「まあ良いか」と諦めたように頷いた。安室は、どんな人なのだろう。キッチリと枠にはまっていて、けれどなめらかな読みやすい文字だった。それってどんな性格だろうか。 
 考えていたら、安室はレンゲを一度置いて、奥の部屋へと踵を返した。奥にある寝室には、足を踏み入れたことは愚か覗いたことすらない。まずいものは置いてはいないだろうけど、なんとなく彼の素顔を見てしまうようで、踏み入れてはいけないような気がした。

 暫くすると、安室は手に何冊かの本を抱えて戻ってきた。私に手渡されたそれには、【ペン字練習帳】【ボールペン字を綺麗に書く方法】などと書いてあって、私はまるで安室が心を読んで準備していたのではと驚いた。素直に「心読んだ!?」と驚いたら、安室は笑いながら首を振る。

「僕も昔はそういったことに疎くて、勉強なんてできれば良いだろうって気概だったんですよ。しょっちゅう赤ペンで直されてました」
「安室さんが!? あ、だって、なんでも出来そうだから」

 あんな綺麗な文字を書くのに、と思ったのは心にしまっておく。確かに、本は綺麗に保管されていたけれど、ページの端々に折り目がついていた。ずいぶんと読み込んであるようだ。

「友人に言われてね。そんなことで駄目になるなんて勿体ない、オレのほうが上手いぞ。――って。確かにその男、国語教師の息子なだけあって日本語は綺麗だったんですよ。そうしたら、負けん気に火がついちゃって、ついつい」
「もしかして、さっきの言葉もその友達が言ってたの?」
「バレちゃいました? 完全に受け売りです。書は人なり、いい加減な文字をしてると中身までいい加減になるぞ!」

 ビシ、と安室は人差し指をこちらに突き付けた。
 肩を軽く跳ねさせたら、安室はクスっと笑い、ゆっくりとその手を下ろす。険しくした顔は、その友達の真似なのだろうか。

「良かったら差し上げます。僕にはもう必要ないので」
「え、でも良いんですか?」
「はい。多少書き込まれていますけど、まだ使えるはずですし。良い返事が書けると良いですね」

 私はその練習帳を眺めて、安室が食後の紅茶を淹れようと下がったのを横目にページを捲ってみた。大切な所にはしっかりとラインが引かれていて、練習帳には確かに安室の筆跡が残っている。

 教科書を読むのはあまり好きじゃなかった。難しい言葉ばかりが並んでいると、頭が空っぽになって眠気が襲う。でも、そんな安室の文字を見ているのが楽しくて、私は時間を忘れたままにワクワクとページを進めていく。
 淹れてくれた紅茶が冷めてしまう前に、ようやくその本をスクールバックにしまったのだった。


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Shhh...