26


 その日は、友達と隣市のショッピングモールに出掛けていた。デパートではなくて、たくさんの量販店が入ったような地元の店で、美味しいものを摘まみながら色々なことを話したりした。マンションからは少し離れていたので、行きと帰りは電車だ。

「じゃあ、私ここだから」
「うん。また明日ね〜」

 最寄りの駅についた友人を、手を振って見送った。時間もちょうど五時過ぎ、帰宅する人も多くて、電車のなかはそこそこに人で埋まっていた。ぎゅうぎゅうに定員とは言わないが、座席はすべて埋まっていたし、人とそれなりに隣り合うくらいには混みあっている。私の最寄り駅まであと四駅ほど。今日は、安室は仕事だったっけか。美味しい夕食にありつけそうにないのは、少々残念ではある。

 なら、今日は近くのスーパーでコロッケでも買っていこうかな。味噌汁を作って、キャベツも付け合わせにしよう。安くなっていたら良いな〜と考えていたら、ふと違和感がして、私は振り返った。

「……?」

 気のせいだろうか。
 これだと断定できるようなものではなかったけれど、視線が刺さったような気がした。人も多いし、ちょっとくらい見られることもあるか。振り返った首を戻して前を向く。やっぱり、誰かが見ているような、妙な感覚があった。
 実際に誰かが見ているところを目撃したわけでもない。だが気分が悪くて、コソコソと立ち位置を移動した。まあ、あとちょっとだから。あと二駅だから。太ももを擦り合わせながらそう思っていたら、指先が背中に触れた。

「白木さん?」

 ぱっとその指先が背を離れる。私が顔を上げると、優し気な顔が心配そうにこちらを覗いていた。急に安心して、私はゆっくりと振り返る。背後にいたのは女性で、彼女もまた心配そうに私を覗き込んでいた。
 私と視線が合って、彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべてハンカチを差し出した。
「良かった、知り合いの方がいたんですね。体調が悪そうだったから、つい……」
「え? あ、ありがとうございます……」
「降りるの、この駅かい?」
 差し出されたハンカチをわけも分からず見つめた。新出も優しく私にそう尋ねるものだから、なあなあに頷いて、新出と共に電車を降りた。女性は最後までお人好しそうな顔を歪ませていて、降りる時には「お大事に」と手を振ってくれた。

 ――私病人なの?

 頭も痛くない。お腹も、胸も、どこも苦しくはなかった。分からないままにベンチに座って、新出が買ってくれたジュースを受け取って礼を言った。彼が私の額に指先を伸ばす。

 瞬間、悪寒がした。

 ぶるっと背筋から震えあがるような感覚がして、私は伸ばされた指先を避けてしまった。意図的ではなかった。新出は少し驚いた風にしていたが、横に座ると、優しく首を傾げながら尋ねる。

「急に触ってごめんね。ちょっと触っても良いかい?」
「あ、えっ……と。はい」

 頷けば、今度は先ほどよりもゆっくり、指先が額へと伸びた。額を撫でつけるように、前髪を払う。それをされた時、額にびっしょりと汗が滲んでいることに気づいた。前髪が張り付いてしまうくらい。
 ハっとして手を見ると、ジュースを持つ手もまた、以前沖矢に指摘されたように汗で濡れている。そりゃあ、真冬にこんな汗を搔いてたら皆心配するかもしれない。
 ただ、心当たりは本当になくて、私はポリポリと頬を掻きながら新出にそのことを話した。彼は優しく「うん」と何度か相槌を打って、私のたどたどしい語り口調を穏やかに聞いてくれる。

「そうかあ。前も、こうやって汗を掻いたことがあったんだね」
「うん。その時も自覚は本当になくて……」
「じゃあ、もう一つ。他の人にも、こうやって急に触られるのは嫌だったりする?」
「……うーん、分かんない。嫌な人とそうじゃない人がいるかも」

 沖矢が急に触ってくるのは、なんだか嫌だった。それは別に彼を嫌っているからじゃなくて、それこそなんとなく≠セ。でも、安室に触られるのは嫌いじゃない。マッサージしてくれたり、ぼさぼさになった髪を笑いながら梳いてくれる。寧ろ好きな方かも。

 新出は柔らかく微笑んで、自分用に買ったらしいコーヒー缶のプルタブを空けた。柔らかいブラウンの髪が、冷たい風にふわっと舞い上がって揺れる。

「白木さんはね、今すごく怖いことがあるんだ」
「怖いこと……って」
「自分では分かってなくても、君の体がそう思っているんでしょう。怖いことから身を守ろうとして、必死に気づかせようとしているんです」

 それを聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのは安室に助けてもらったあの夜のことだった。本当に、気になってなんかいなかったのだ。私の云々より安室の立場のほうが気がかりでしょうがなかったし。
 私が腑に落ちない顔をしていた所為だろう。新出は苦笑いを浮かべながら、話を続けた。

「怖くなんかなかった、って顔ですね」
「うん、安室さんがいたし……」
「白木さん。心と体って、どっちが大切だと思いますか」

 急な質問に、私は戸惑いながら考えた。そりゃあ心――と思うけど、新出の今の話し方だと、体かもしれない。体じゃないかと、自信なさげに言えば、新出はゆったりと首を振った。
「正解は、どちらも。例えば足や手が欠けても元気に生活をしている人はいるでしょう。体が健康でも心が病に掛かっている人もいる。しかし、体がなくては人は生きてはいられません」
「確かに、そうかも」
「そんな白木さんの体が、こんなになるまで君に訴えているんです。少し耳を傾けてあげましょう」
 気遣わし気に、ゆっくりと、新出は私の手のひらに触れた。もうだいぶ汗は引いていた。本当に自覚がない分、どうしたら良いかは分からなかった。けれど、触れた新出の指先が優しくて、私は拒む気にもなれない。

 小さく頷いたら、新出はなぜか微笑みながら礼を述べた。
「大丈夫。別に病気なわけじゃないから、普段の通り過ごして良いよ。ただ、体が可笑しいっていうサインをしっかり受け取ってあげてください。もしちょっとでも可笑しいと思った時は、こうやって休憩すれば良いからね」
「サイン、って、こうやってめっちゃ汗かいたりすること?」
「そうかもしれないし、例えば誰かに触られるのがすごく嫌なときかもしれない」
「むずー……」
 なにそれ、とぼやくと、新出は「確かに」と笑って見せた。彼は日の沈みかけた空を見上げて、今日は歩いて帰ろうと提案した。ゆっくりと、彼らしい穏やかな歩調で、私の家に向かって歩き始める。

 ――そうかあ、私、怖かったんだなあ。

 小さく震える指先を見つめて、私は頭の中で考える。それもそうか。レイプされそうになったんだし、世の中にはそれで普通に過ごせなくなった人もいるって聞くもんなあ。

「……そっかあ」

 なんだか、無性に安室に会いたかった。新出は連絡しておくよと言ってくれたけれど、あの日怖くないと言った手前気まずかった。別に心配されたいわけじゃないけども。本当に、あの姿を見ていたら、怖くないって思ったから。

「白木さんは、安室さんが大好きなんだね」

 マンションの手前で、新出がそう笑った。他意はなかったように思う。彼は普段から私をどこか子どものように扱う節があるから、今も彼の中では五歳くらいの子どもに向けた気分だったんじゃないだろうか。そう思うと、ちょっとムカついた。

「……うん、そーだけど」

 白い息を吐きながら、ツンとして言い捨てると、新出はやっぱり幼い子に対するようにニコニコと笑っている。
「でも新出センセーも好きだよ」
「ありがとう」
 私が頬を緩めると、新出もゆっくりと笑って頷いた。一瞬、伸ばしかけた手を、彼が自然と引っ込めたのには気づいてしまった。


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