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 最近、以前から退屈であったはずの授業が、ほんの僅かに楽しみになった。
 原因は、あのペン字練習帳だ。最初は、ノートを取ることが楽しいだけだった。可愛いペンやマスキングテープも買ったし、綺麗にきちんと取られたノートは見返すと気持ちが良い。それだけの理由で授業を聞き始めた。
 授業を聞き始めたら、不思議と今まで意味が分からないと思っていたことに得心がいき始めた。呪文だと思っていたものの意味が分かるようになってきたというか。数学や英語はよく分からなかったが、現代文や世界史はそこそこに好きだった。惜しむのは、課題が出るのは数学や英語ばかりだということだ。

「やば、三角関係ってことじゃん」

 ぺらっと教科書のページを捲る。黒板にカツカツとチョークの粉が散らばっていくのを見て、私もペン先をノートに走らせた。今習っている題材は【こころ】という、どうにも有名な作品らしい。ナツメソウセキ、聞いた事はある。この人、小説書く人だったのか。
 一見読みづらそうな文章も、教師の言葉で噛み砕かれていくと、案外ドラマを見ているようで楽しいと思えた。帰ったら安室にも聞いてみようと、気になる場所に下線を引いていると、教師が授業を中断した。チャイムの鳴る五分前のことだった。

 現代文の教師はクラス担任だったので、何か連絡事項があるのだろう。顔を上げれば、プリントが前のクラスメイトから回ってくる。今度こそ、しっかりと後ろに回しておいた。全員に渡ったことを確認した教師が、いつもよりやや真剣味を帯びた顔つきで話を始めた。




「進路希望かあ〜……」

 もうすぐ、二学期が終わりを迎える。二学期末には、三者面談があった。それに向けて、進路希望調査のプリントが配られたのだ。一応、安室に相談するべきだろうか。親ではないけど。悩んだ挙句、こうして自分ひとりで悩んでいてもしょうがないので、夕飯時に彼にプリントを提出した。

 すると彼は少しだけ顔を顰めて、難しそうに携帯と睨めっこを始める。そして暫くプリントを眺めてから、言いにくそうに切り出した。
「すみません、その時間帯はどうにも抜けられそうになくて……」
「え? あ、三者面談のこと?」
 てっきり、進路希望について悩んでいるのかと思っていたので、私は拍子抜けた声をだした。別に、本当の親でもあるまいし、そんなことを気にしなくても良いのに。
「大丈夫、新出先生が一緒に来てくれるって言ってたし」
「それが良い。明日から少し仕事が忙しくて……」
 プリントから目を離し、彼はにこやかなまま皿洗いを続けた。最近は落ち着いたと思っていたのだが、どうやらまた少し家を空けるらしい。明日からハロの散歩だけ、と託されて、私はハロと一緒になって返事をした。

「ねえ、安室さんってこころ≠チて知ってる?」
「夏目漱石の? 知ってるよ」
「今授業でやっててさ、すごい泥沼なやつ」
「そうかなあ、綺麗な話だと思うけどね」

 安室がきゅ、と蛇口を締めながら僅かに笑う。意外だった。教科書で読んだ小説は不穏な雰囲気で終わっていたし、どう考えても男女の三角関係についてが描かれていて、綺麗と言う言葉には見合わなかったからだ。私が首を傾げたら、安室は笑いながら「そりゃあ、教科書の抜粋部分は一部だから」と言う。

「何なら、読んでみます? 文庫本は持っているので」
「えー、でも私先生に教えてもらってやっと読めるくらいなんだけど……」
「確かに、読みなれてない人には言葉遣いも違って読みづらいかもしれませんね」

 安室はキッチンに掛けてあるタオルで軽く手を拭うと、捲っていた袖を戻しながら私の向かい側に腰を掛けた。安室に教えてもらえれば一番だが、その彼が今から暫く戻らないと言うのだからしょうがない。

「なら、工藤優作なんかどうでしょう。馬鹿にしているわけではありませんが、彼はミステリーものの児童文庫も手がけていますし」
「工藤……? ああ! そうなんですか、ちょっと読みたいかも」
「きっと学校の図書室にあると思いますから、探してみては?」

 好みの本も見つかるかもしれませんし、と提案してくれた言葉に、私は笑顔で頷いた。ちょうどペン字もページが押してきたところだし、新しい暇つぶしを見つけるのも悪くない。

「ていうか、学校の図書室ってどこにあるんだろ……」
「ふ、はは。それも含めて、冒険してみたら良いよ」

 前の学校でさえ、図書室がどこにあるかなんて知らないのに。本ってどうやって借りるんだっけ――、数美は知っているかな。私だったら、友達にせがまれても答えられないところだった。

 テーブルの下で足をパタパタと泳がせていたら、対面に座る安室の足にぶつかった。ずいぶんと長い脚である。一度目は気にもとめていなかった様子だったが、二度目、わざと軽くぶつけたときには視線がチラリとこちらに向いた。

「安室さん、足なっが」
「どうも」

 クールに肩を竦めて見せた安室に、私はもう一度つま先をぶつける。少しだけ、甘えたいというか、構ってほしい気持ちも混ざっていた。これから数日間可愛い妹分が寂しがることが確定しているのだから、これくらい良いんじゃないだろうか。

「誰が妹分だって?」
「……あれ、声出てた?」
「ええ」

 笑い混じりの声。乱れた髪の毛を、その指先が伸びて耳に掛けてくれる。温もりがこめかみを掠めていった。くすぐったくてケラケラと笑いながら、ダイニングテーブルに頬を凭れさせる。先ほどキッチンクロスで拭いたばかりの机は、ひんやりと冷たい。

「僕の妹なら、もう少しキチンとしているはずですが」
「無理無理。こんな完璧なお兄ちゃんいたら、甘え放題でグダグダだって」
「ホォー、こんな風に」

 むにむにと頬の余分な肉を引っ張られた。確かに、近頃まかないやら安室の夕食やらで食べ過ぎたかもしれない。頬が前より柔くなったような気がする。楽しむようにぐにぐにと何度か頬を抓る指先に、甘えるように擦りついた。

 拒否されるかも。と思った。
 彼は、家族でも友人でも恋人でもない。強いて言うなら、隣人という名のただの他人だ。良く言っても、私の面倒を見る後見人。しかも、相手はあの安室――否、降谷零だ。三つの顔を持ち、潜入捜査員として日々神経を鋭くさせている人。

 けれど、安室は拒みはしなかった。
 一瞬、手がビクリと跳ねたのには気が付いた。けれどすぐに、ハロを撫でるような柔らかな指先が、大きな手のひらが、擦りついた私の頭に沿って、ゆっくりと撫ぜた。心地良い。その温もりも、僅かに伝わる鼓動も。

「仕事、気を付けてね」
「……ええ」

 言葉の間に、彼が何を考えているのかさえ、少しだけ伝わるような気がした。彼はまた、沖矢昴の――赤井秀一のことを調べに行くことだろう。彼は生きているのか、血眼で、目の下をやつれさせてまで調べるのだろう。

 私が言ったところで何も変わらないから。この世界は順当に回っている。順当に、原作通りに、巡っている。しかも、喜劇的に。私が彼に何かを言って、それで救われる人なんていない。寧ろ、事態は悪化するかもしれない。

 せめて、彼が帰ってくる時に、食べられるものでも作っておこうか。
 これだけ信頼をおけるようになって、色々と面倒を見てもらって――恩を仇で返しているみたいで、心が重くなる。せめて、はやくに自立して、生活できるようにならないとなあと、進路希望のプリントを眺めて考えた。


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Shhh...