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「おや、工藤優作?」

 いつも通り、昼休みに保健室で視診を受けながら、図書室で借りた本を捲っていた。ページは多くの人に触れられたせいか、紙の端が反るような跡がついている。欠伸しながら視線を上げると、新出が眼鏡を軽く直して笑った。
「うん。ちょっと暇つぶし」
「それにしてはもうページも最後のほうじゃないか。すごいよ」
「でもこれ小学生向けだよ」
 言えば、穏やかな微笑が押し黙る。そこで黙るなよ。心の中でぶすくれながらツッコミを入れると、それを読んだように新出はクスクスと優しく笑った。新出の笑い方は、春に降る日差しのように温かく柔い。その笑い声を聞くと、どうにも拗ねていた気持ちだとか怒っていたことがどうでも良くなってくるのは、彼のすごい所だと思う。普段の新出の人の好さも相まって、私もふにゃっと情けなく笑った。

 しかし、いくら児童文庫と言えど、ここまで真剣に小説というジャンルを読み進めたのは人生で初めてだ。基本的に活字はあまり得意じゃないし、三行以上の文章なんて見ただけで眠気が誘う。ここまで読み進めることができたのは、この児童文庫の最初に載っている挿絵のおかげだ。主人公はクールで変わり者だが人情派な探偵。挿絵には黒い髪を後ろに撫でつけた、皮肉屋っぽいイケメンが描かれている。
 これがまた、中々どうして好みだった。自分でもミーハーな自覚はあるが、安室透にハマった時然り、こういうミステリアスなイケメンには弱い。おかげさまで、台詞の一つ一つが脳内でイケメンの声と顔で再生されたものだ。

 半ばまで読み進めてしまえば、あとは工藤優作の文才様様だった。そのストーリーに引き込まれるまま、一週間。残すところあと数ページ。こうして見ると、少し勿体ない気がしてくるけれど、なんでも次巻があるらしいのでそれを楽しみに読み進めているところだ。

「三者面談、本当に僕で良いのかい」
「寧ろお願いしてるんで。まあ、進路っていうか、就職一択なんだけど……」

 勉強したいこともないし、早い所安室に頼らずに生きていけるようにならなければ。言うと、新出は意外そうにレンズの向こうの瞳を瞬かせる。確かに、医大を出た新出からすれば、高卒という選択肢は信じられないかもしれないが――。

「ああ、いや。そうじゃないんだ。勿体ないと思ってしまって」
「……勿体ない?」
「だって、小説に興味が出てきたんだろう? 折角ならそういったことを勉強できる方に進んでみたら良いのに」
「いやいや。たった一冊読んだだけだし。そんなの必要ないでしょ」

 小説だったら、大学行かなくたって読めるんだから――。
 そう笑い飛ばせば、新出は「そうかな」と、また柔らかく笑うだけだった。興味があるといっても、別に小説を書いたり研究するわけじゃない。読むだけなら本屋に行けばできることなのだから、わざわざ学費を払って行く必要もないだろう。

「小説じゃなくたって良いんじゃないかな、雑誌とか」
「雑誌? 服とか、コスメとか載ってるヤツ?」
「ああいうのも、文章が綺麗な人ってすごく読みやすいんだ」

 脇に挟んでいた体温計が、アラームを辺りに響かせる。画面には、三十六コンマ七。私はそれを新出に手渡しながら、ぼんやりと将来のことを思い浮かべた。私が考え込んでいることに気づいたのだろう、新出は申し訳なさそうに「気にしないでくれ」と眉を下げて告げた。

「白木さんの好きな風で良いんだよ。きっと、安室さんもそう思っているから」

 一応、そうは言ってくれるけど。私には関係ないわけだし、頭の隅で悶々と考えていながら、机の上に置いていた小説とポーチを鞄の中に入れる。

 小説――かあ。
 もし小説だったら、恋愛小説が良い。それこそ最後は皆が泣いてしまうような、綺麗な話が良いなあと思う。
 雑誌なら、ファッション誌が良い。
 昔から、服を見るのは好きだし、そこに煌びやかだったり素朴だったり、イメージ通りの言葉を付け足すのは面白いかもしれない。

 あれもこれも良いなあなんて夢心地のまま席を立つ。保健室を後にすると、機嫌よく踵を返す。そして、慌てて首を振り思考を追いやった。
 いやいや、そもそも金銭的に自立したくて働きたいのだから、何か学びたいことがあるとかないとか、そんなことは関係ないのだ。そう考えながらも、頭の中は想像を止めることができなかった。
 やっぱり主人公はイケメンで、普段はミステリアスなんだけれど実は心は優しくて――。もしかしたら、笑ったらキラキラと輝くような、満月のような人かもしれない。きっと、そんな人が良い。




 三者面談の当日、授業も短縮なので、大抵の生徒は一度戻り、保護者と一緒にもう一度登校するのだろう。私はすることもないから、軽食にコンビニで買ったポッキーをぽりぽりと頬張りながら例の小説を眺めていた。

「白木〜」
「あ、はーい」

 担任が前の所為との面談を終えたらしい。名前を呼ばれて、元気よく返事を返すと、教室の扉からちょいちょいと小さく手招かれた。教室には、三つ分の椅子。一方は教師側に、一方は児童側に二席。今から私が使うのは、その三席の中の二席だけである。

 腰を下ろすと、担任は手元にある調査票を見ると、少し眉を顰めて唸った。なんだ、先生まで何か言いたいことがあるのだろうか。
 何の話をされるかと身構えていたのだけど、担任は物わかりの良い教師で、サラリと「就職希望?」と私のプリントに書いてある内容を復唱した。
「はい、早くお金もらって……せめてこんなに頼らなくてよくならないとって」
「そんなことを気にすることはないと思うがなあ」
担任は苦笑いをして、ぺらぺらと書類を捲った。どうやら私の成績やらを眺めているらしく、小さく苦笑いが浮かぶ。

 この場に新出がいないのは、先ほど階段の手すりで思い切り側頭部をぶつけたらしい生徒の治療をしに、医療現場まで戻ってしまったからだ。別に、それに対してはしょうがないとしか思わないけれど。

 私の希望がハッキリとしているぶん、担任はトントンと話を進めてくれたし、困ることも特になかった。じゃあ早めに高校にきた求人を紹介する、という話を切り出され、三者面談は終わろうとしていた。

「じゃあ、ありがとうございました」

 その場で頭を軽く下げると、担任の教師は「また困ったことがあったら来なさい」と笑いながら答えてくれた。それにまた、面談の初めと同じように元気よく返事を返して、席を立った。

 私が踵を返すのと同時に、閉め切っていた扉が勢いよく開いた。あまりに勢いよく開けた所為で、バアンという騒音が響き、扉が跳ね返ってしまったほどだった。私も、教師も、パチクリと目を瞬いて立ち竦む。


「――っ、すみません。遅れました……!」


 はぁ、と僅かに息を切らして扉の前に立っていたのは、紛れもなく安室透――。否、そのグレーのスーツは。

 ――ふ、ふ、降谷さんスタイルだ!!

 彼は勢いよく音を鳴らしてしまった扉を、申し訳なさそうにそうっと音が鳴らないように閉めた。相当急いで来たのだろう、アニメで観た通り、薄いグレーのスーツに白いシャツ、きっちりと絞められたネクタイ。彼が公安警察として活動していたスタイルと、まったく同じだった。
 乱れたブロンドに構うことなく、来賓用のスリッパが脱げかけるのを片足で直しながら、私の隣に立った。いつもの淹れたてのコーヒーだったり柔軟剤の香りはしなくて、スーツを着ている所為かいつもよりガタイが良く見える。

「彼女の保護者の、安室と言います。すみません、仕事が立て込んでいて、少々遅れまして……」
「ああ……いやいや、どうぞおかけください」

 教師は面食らった顔を隠すこともなく、私の隣にある空いた一席に手を伸ばした。安室はそれを聞いて、ニコリと頭を下げてから、その椅子に腰かける。ドクドクと胸が熱くなった。あまりに華々しいそのスタイルに見とれれば良いのか、急いで駆けつけてくれたことに感動すれば良いのか、私の感情はジェット機ばりの早さで揺れ動いていた。


prev Babe! next
Shhh...