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 恐らく堅実な人生を歩んできただろう中年の教師は、この齢の男性教員にしては生徒たちからよっぽど好かれている。理由はそこそこ大雑把で細かくなく、なんとなく朗らかな雰囲気がするせいだ。私も何かと話しやすいし、気にかけすぎることもないが、困っていることがあればさりげなく声を掛けてくれるような気遣いのできる人だった。
 そんな彼が、明らかに動揺を表に出しているのが見て取れる。理由は、私の隣に並ぶ男――安室透の所為だろう。安室は薄っすらと浮かんだ汗をハンカチで拭った。その汗さえ煌びやかに輝いていて、耳に掛けたブロンドが眩しい。眩しすぎる。

「……あの、何かありましたか」

 安室が、自分の所為かと言いづらそうに切り出した。
 お前がイケメンすぎてフェロモン爆発してるからビックリしてるんだよ――とは言えず、教師も「ハハハ」と空笑いするだけだった。大丈夫、私も急に出てきた降谷零を初めて目の前にしてマトモじゃいられないと思う。

「来るなら言ってくれても良いのに」
「すみません、本当に来れるかどうかはギリギリで……。約束を反故するようなことはしたくなかったので」

 私もひとまず席に座りなおし、安室が苦笑するのを横で眺めた。カフェのエプロン姿や私服も似合っているが、降谷零の象徴と言えるそのグレースーツは別格だ。いつもより五割増しくらいで格好良く見える。「う……」と輝いた笑顔に胸を押さえれば、安室は呆れたようにため息をついた。

 目の前の教師はようやく我を取り戻したようで、先ほどまで目にしていた進路希望のプリントを捲った。話したばかりだというのに、エート、と目を凝らしている姿に降谷零の罪深さを感じた。

「白木からは、就職希望だと聞いていますが……」
「彼女の意思を尊重するので構いません。本当に良いのかい?」
「あ、うん……そんなに勉強したいこともないし……」

 こちらを向いた視線に、一瞬ギクリとする。彼の彩度の低いアイスグレーの大きな瞳は、本当に私の表情をくっきりと反射する。少しだけ、新出の言っていたことが頭を過ぎったせいだ。いやいや、確かに楽しそうだけど、そんなのは趣味でもできることだ。大学なんて、高校よりずっと高い学費が掛かるんだから。

 そう思って頷くと、安室は手に持っていたビジネスバックから、何冊かの小冊子を取り出した。キャンバスのパンフレットだ。私も教師も目を丸くしてそれを見ていると、安室は端から順に説明を始める。

 どれも、文学科のある大学だ――。小説や論文の解析を主とする学科であったり、キャッチコピーを学ぶ学科であったり、はたまた文字に論点を置いた学科であったり、様々だった。

 一瞬戸惑ったが、先に我を取り戻したらしい教師が、慌てて口を開く。

「ええっと、安室さん……は、進学を希望したいということでしょうか」
「いえ、先ほども言った通り、彼女の意思を尊重します。――しかし、選択肢を知らずに就職を選ぶのと、知って選ぶのとでは違うと思いまして」

 押しの強い安室の態度に、教師も「なるほど」と押され負けている。負けるな。私はハっとして彼を呼び止めた。そんなことをしなくても、就職を選んだのは間違いなく私の意思だったからだ。
「彼女は確かに無知なところがありますが、飲み込みの早い子です。学びたいことを吸収する時期だと思います」
「あ、安室さん。私が言ったんだよ、就職って」
「少々――少々、成績に問題があるのは分かっていますが」
「ちょっと!」
 それは関係ない! いや、関係はあるかもしれないけれど、今は関係ないのだ。まるで私の頭では行ける大学が一つもないみたいな言い草じゃないか。普通に恥ずかしいので止めて欲しい。

「もちろん、白木がそう言うなら私どももサポートはしていきますが」
「……え、えぇ……。私? 別に、そんな……」

 この世界に来る前から、大学に通いたいと思ったことはなかった。まず大学に行く学費を工面できるほどの経済力もなかったし、私も高校を卒業したらすぐに働くものだと思い込んでいたのだ。もちろん、それを悪いことだなんて思わない。

 ――安室は、どんな気持ちでここに来てくれたのだろうか。

 姿かたちもおざなりに、仕事帰りにそのまま駆けこんだのだろう。きっと、その選択肢≠私に伝えるために。そう思ったら、なあなあに考えることはできなかった。大学――大学かあ。

「――……で、できるんですかね」

 私は空笑いしながら、教師に向かって投げかけた。まず、金銭的に受けさせてくれると言ったとして、果たしてそれは自分に向いているんだろうか。十数年、勉強なんて無縁で生きてきた。精々、留年しなきゃ良いかと思っていた。
「私、本当に馬鹿だし……第一大学行っても、多分飲んでグダグダして過ごすだけだろうし、それならちょっとでも働いてお金にしたほうが良いかな〜って……」
『それは下手で馬鹿なんじゃなくて、経験がなくて教えてもらっていないだけ。今から知れば良いことです。だから、わざわざ卑下しなくてよろしい』
「……」
 その後は、言葉が続かなかった。続けたとしても、でも、だって、という接続詞しか続かない気がする。結局、尻込みして黙り込んでいたら、大きな手が背筋を正すように背に触れた。

「僕は、別に大学が全てだなんて思いません。学びたいと思えば幾つからでも通える学び舎ですし、自分の良いタイミングで入れば良いでしょう。――ただ、金銭や卑下を元に学ぶ意思を折ることはやめなさい。君が学びたいと思うなら、その機会を与えるのが僕の役目です」

 ぐっと背を押されて、私は慌てて背筋を伸ばす。つんざく日差しは、教室の窓から机を温かく照らしていた。彼が触れただけで、世界から肯定されているような気持ちになれた。反射する日差しに目を細めて、私はドキドキと鳴る鼓動に急かされるように口を開く。声は少しばかり、震えていたかもしれない。

「も、文字をね……綺麗に書けて、嬉しかった」

 ずっと下手だと思っていた文字。一文字上手く書けるだけで、喜びを感じた。できないと思い込んでいただけで、やればできるじゃんと、自分を褒めてやれた。

「小説を、初めて一冊読んだの。すごく面白かったよ」
 
 縁のなかった小説は、この世界ではない空想の世界に私の心を呼び込んだ。漫画やアニメとは違う、文字から連想した自由な空間。私の頭のなかだけで、部屋や道、笑い声や涙の色が描かれていく。

「もっと知りたいって思う……。私だけの文字や空間も作ってみたい」
「できるさ」
「でも、私本当に勉強とかできないから……、お金だって、返すあてないし」

 言えば、安室はむぎゅっと軽く頬を抓った。そして得意そうに笑ってから、手を離す。
「それが大学を断る理由なら、もう終わりですね」
「ね、ねえセンセー。私マジで大丈夫? 本当に今から勉強して行ける場所ある!?」
 安室も言っていたけれど、とことん勉強に熱意を向けなかった人生だ。そのツケと言えばそうなのだけど、今から払える量なのだろうか。

「行けるでしょう。君は確かに勉強をしてこなかったかもしれないが、地頭は悪くありませんから。ペン習字だって、毎日欠かさない継続力もある。案外周りがビックリするような場所に行くかもしれませんよ」

 教師がそれを聞いて、唖然としたあとに豪快に笑った。確かにと何度もうなずきながら、涙がにじむほどに笑っている。
 私はといえば、顔が熱くなるのを感じながら、しかしうずうずとした心の痒みを取り切れないでいた。

 ――もしかして、安室って私のことケッコー好きなのではないか。

 さっきから、親バカも同然のようなことを言われているような気がする。私が横で顔から煙を出さんとする中、安室は笑顔のままにペラペラと私の長所を並び連ねていた。
 結局、私が観念して「もう良いから。大学行かせてください」と頭を下げることで、その謎の自慢話(――私に関する)は終わりを迎えたのだ。


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Shhh...