30

 
 家に帰ってからも、しばらくの間私はそわそわとしていた。
 何せ大学受験、だなんて本当に縁がなく、興味もない話だった。というか本当に大丈夫か。こんな今の今まで開かなかった教科書たちに愛想をつかされてはいないだろうか。他にもいろいろと心配なことばかりがあったけれど、一番私の心を浮つかせるのは、安室の態度だった。

 きっと、仕事が終わってから急いで駆けつけてくれたこと。
 私の将来のためにと、色々な参考資料を調べてくれていたこと。
 何より、私自身の能力を、安室自身が信じてくれていたこと。

 もちろん、中にはおべっかの一つや二つあるかもしれない。安室透として繕った部分も、保護者として責任を果たそうという彼の性格も相まっているだろうとは思う。――けれど、ちょっとでも、浮ついても良いような気がした。少なくても、赤の他人よりはよっぽど大切にしてもらえているんじゃないかと自惚れた。――しかも、あの、安室透にである。

「……ふふ」

 そう考えたら、頬がゆるゆると持ち上がっていく。
 純粋に嬉しさと、僅かに優越感があった。最初はどうして拾われたのが安室なのかと思った。確かにイケメンで漫画内でもそれはもう魅力的なキャラクターだったけど、同時に目的を果たすには手段を選ばないような、信念の強い男としても描かれていたから。同じコナン界なら高木刑事とか、それこそ新出先生とか、そういった優しくお人好しそうな人のほうが、私も気が楽だ。
 でも、安室に好意的にしてもらえるなら、拾われて良かったと心底拳を握ることができる。できることなら、これからもその平穏な日常が続けば良いと思った。


「――早く、お茶会まで進んでくれればなあ」

 
 安室と親しくなるにつれて、心を重たくする鉛――。私が、彼が恨む最大の人物の生存を知っていることだ。安室は今も、彼の姿を追い続けている。その正体を掴むのは、今よりもう少し話が進んだところだ。 
 そうなったら、私も私のことをしっかりと打ち明けたい。ここまでしてくれる彼に、隠し事はしたくなかった。沖矢でも信じてくれたのだから、きっと安室だって大丈夫。そう自分に言い聞かせた。
「大丈夫だよね」
 安室は、私をマンションまで送り届けると、再び踵を返していった。曰く、まだ仕事が残っているのだそうだ。クッションを抱きしめながら、ソファにごろんと横になる。そうだ、ハロにご飯をあげないと。私はドックフードを取りに上体を起こした。その気配を感じ取ったらしく、ハロが嬉しそうに駆け寄ってきた。
 その毛並みを撫でつけながら、ハロの持ち上がったように見える口角につられるように、私はニコニコと笑ったのだった。




「大学?」

 ポケットに入れられた手が伸びて、眼鏡をくいっと押し上げた。ぽつぽつと灯る街灯のなか、彼の大きな足がアスファルトをこつこつと鳴らしていった。馬鹿にするわけではないが、やっぱり少々意外そうな反応だ。私が一番信じられてないのだから、しょうがないことだとは思う。

「そー。だから冬休みは勉強漬けになっちゃった」
「なら、暫くはこのあたりを徘徊しなくて済みそうだ」
「やっぱ気遣ってくれてた? ありがとうございまーす」

 沖矢の口からそう聞いた事はなかったが、以前夜道で出会ってからはバイトや学校の帰り、頻繁に出くわすことも多かった。それまでは一度としてすれ違ったことがないので、意識してその道を通ってくれたのだろうと思う。今ではすっかり散歩仲間である。
「いえいえ、僕も野暮用があったのでね……」
「それって、コナンくんのこと? 哀ちゃんのこと?」
 首を傾ぐと、大きな指先がむぎゅっと口の端を摘まんだ。私は眉間にぎゅうと皺を寄せて、その手を振り払う。沖矢が可笑しそうに笑いながら、「失礼」と乱れた私の襟を正してくれた。

 ――どうして、沖矢さんは駄目なのだろう。

 新出の言う通り、私は人に触れられることに無性に嫌悪感を抱くようになっていた。意識して思えば、それはそうで、以前までは友人とも腕を組んだり、後ろから抱き着いたりというのが当然だったのに、近頃は肩を叩かれるだけで体が異常に跳ねる。
 安室に対しては、それが急であろうと一度もなったことがなかった。それだけ彼を信用しているということなのだとは思うが、私の心持ちとしては沖矢も信用しているつもりだった。私の身の上を唯一知る人物だし、こうして何かと気に掛けてくれるわけだし。

 ――でも、そんなこといったら新出先生もか。

 なら、彼らに問題があるわけじゃなくて、やはり安室が特別なのかな。そんなことを思いながら歩いていたら、気づくとマンションが見えてきた。沖矢は上の階を見上げて、「今日は彼はいないんですね」と呟く。
「ですね、暫く帰らないみたいで」
「そうでしたか。なら帰りは危ないのでは?」
「あはは、でも沖矢さんがいるし」
 けらけらと笑いながら沖矢のほうを振り向けば、彼もまた冗談めかすように「確かに」と肩を竦めた。エントランスの前に着いたとき、沖矢が白い息と共に切り出した。別れの挨拶ではない。

「そういえば、君は携帯を持っていない?」
「あ、はい。もうちょっとお金が貯まったら買おうかな〜って思ってて……」

 そこまで話して、私はアっと声を上げた。そうか、沖矢の連絡先を聞いたのに、一向に一報もいれない所為だ。携帯が手元にない所為ですっかり失念していた。
「ごめん、メールいれてなくて」
「いえ、それは構いませんよ。……しかし、そうですか」
 沖矢は一度輪郭にしては小さめの口元を微笑ませてから、何か渋い顔をして考え込んだ。
「前の携帯はコッチじゃ使えなくて」
「でしょうね……。――やっぱり、何でもありません」
 勿体ぶるように首を振るものだから、私はそれがじれったく思えて、つい食い下がってしまう。私、気づかないうちに変なことを言っただろうか。赤井は頭が切れる男なので、気づいた事があるのならボロを出す前に教えて欲しかったのだ。

 沖矢は暫くの間何も言わなかったが、静寂が広がる路地のなか、私の手をぐっと引き寄せた。思わず振り払いそうになったのを、直前で堪える。煙草の香りが、すぐ近くに広がった。彼が何か、周囲に聞かれたくないことがあるというのは察することができたのだ。

「こう言っては何ですが……やはり彼に疑われているのではないでしょうか」
「え、彼って……安室さんのこと?」

 見上げると、シィ、と沖矢の口元から息が零れる。ぎくりとした。
 疑われている――否定はできない。しかし、彼は私がどこから来たかには興味がないと話していた。それに嘘があるとも思えなかった。私が言い渋っていると、沖矢はちらりと片側の目を開いた。グリーンアイが私を見据える。

「そうでもなければ、二度も襲われた少女に携帯電話の一つ、持たせない男とは思えません。現にそれ以外の物は、不自由なくもらっているのでしょう」
「……だけど、スパイとかなら自分で携帯を持ってるんじゃないかな」
「スパイにとって、情報の詰まった機器は命と同等です。今回のように警戒心を解くためなら、アナログな方法を取ることだってあるかもしれない」
「でも……。そんな風には、見えないけど」

 私はツンとしながら、安室のことを考え込んだ。そんな風に思っている男が、まさか三者面談一つのためにあんなにも走って現れるだろうか。確かに、与えられる物の中に携帯電話がないことは不自然かもしれないが、別に不満があるわけではない。
 ややあって、沖矢は私の手を離し、柔く苦笑した。

「いえ、やっぱり僕の考えすぎです。すみません」
「……ううん。私そういうの分かんないし、心配してくれたんですよね」
「心配というか、まあ――いまや君は僕の命綱なので」

 それもそうか、私も苦笑いを浮かべ、少し申し訳なさそうにした沖矢に手を振った。すると彼は、思い返したように踵を返した私に言葉を掛ける。


「ああ、でも気を付けてくださいね。機を見て盗聴器が仕掛けられることもあるかもしれません。特に、家や油断している時に触れてきたときは――」


 私はその言葉に、振り向くことができなかった。そうであってほしくないという、私の願いが、あまりに強すぎたのだ。いや、いっそ、それでも良い。疑ってくれても、信用していなくても良いから、私を少しでも大切にしてくれた想いが、嘘でありませんように。


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